金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

しっかりと我をみすえる

一昨日、精神科医の蒲生先生や中医の松江先生と中医の精神医療の話で顔合わせをしているとき。
たまたまひょんなことで話が仏教の「空」の話に・・・
すると私の口から「まず我がしっかりなくてはそれを否定できないでしょう。空の前提に確固とした我がなくては空はなりたたないんじゃないかなと思うんです。」という言葉がついて出ました。
自分でも驚きましたがこれは私じゃないんですね。しゃべったのは。

でもこれそうだなあと思うんですね。
バカみたいだけど。

みんな空だの無駄のという屁みたいなお話(失礼!)が好きだけど何なんだと思う。
私はそういう話ハッキリ言って本当は大嫌いです。
そういうのは思索の領域の話じゃないから、あれこれいうのは意味ないと思っている。

真実、存在の本質が空なら、何をどうお思おうがそこは変わらないはずです。
一生懸命、無や空になろうとするけど…それならまずしっかり我を追求してみたい。
我の本質が空ならどうしたって空の認識に至るはずです。

私は自分は本当は存在しだとか、本当はいないんだとか一心不乱に思いこもうとして思索しながら瞑想なんかしていなんてのはバカみたいに思う。
なんか違う・・・。
これ聞いて怒る人いたら聞きます。その怒っているあなたはどこに存在していますか?
判んなきゃ怒る資格もないでしょう・
そういうの怒るというのは強固な我がそういう思い込みでお粗末な自分を武装しているからなんだね。(まあ、お粗末なことは私も人後に落ちませんが)

私は禅の師家なら、禅問答して「無ーっつ」と答える瞬間にすかさず棒で一発くらわしてみたい。
そこでその参禅者が本物かどうかがわかるんではないかなあと思う。
勿論、どうすれば正解はないと思いますけど「な、なにするんですかあ!」と怒る人いたらおもしろい。(笑)