金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

その瞋りはただの嫉妬かも?

坊さんはこうじゃないといけあない、ああじゃないといけない。と怒り憤慨する人いますね。

いやあ、実にごもっともですが…で思うんです。

例えば生活態度の良くない坊さん見て、他も同じように思われちゃ迷惑だと怒る。僧侶の社会的的信用が下がるから怒る。
そういうのはありだと思う。

だけどそういう社会常識やモラルは別にして戒律の問題なんかで本当にそう思うなら他人なんかどうでも自分が坊主になってそうすりゃいいだけでしょ。
怒るこたぁないでしょう。そこに怒りがあるのはなぜ?
こと宗教的規範においては批判はあっても瞋りや憎しみはおかしい。
そこに人や動物の被害者が存在しないのなら怒るのは違う。
まあそれでなにかしら迷惑かけられたのなら別だけど。


人間は自分が強く禁止してきたことを、他人がノウノウとしてたらすごく怒るんだよね。
あるいは自分がアイデンティティのある存在が絶対しないことを他の人がしてたら「よくない」と思わないといけない。
そういうこころの構造になっています。


例えば、世間のお話でも若いころ手つないでデートなんかしちゃいけないと固く信じて禁止していたら、人がそうしていたら「ふしだら極まる‼」と言って怒る。

もともとそんなこと希望もしないし考えてもいないなら怒るという気持ちは起こらない。

あなたは小鳥がミミズ食べるの見て怒る?
アイツだけ沢山ミミズ食べてなんて思わないよね。
怒らないよね、自分はミミズ食べないからです。
自分が禁止してきたのによその人がそれしたら怒る。
それって何にも理解せずにただ我慢してきたんだね。
ういうタブーみたいなレベルの禁欲や戒律なんか全然意味ないわ。戒は理解がないと戒にならない。
無意味、無功徳!
たとえば、上座部の坊さんは妻帯しないのにと日本の坊主は!と怒る人。
怒る理由は何?自分で考えてみな。
坊さんが結婚するのは○○だからいけないと明確に理由を言えますか?
言えるならオーケーです。賛否はともかくそれは一つの主張と言える。

酒飲みたいのに禁止してきた人は他の人が飲んでたら怒る。
自分が飲まないことを理解してたら、「お酒なんか好きで、あの方は気の毒な人」とは思っても怒ることないよね。
修行は自分がしたくてしてる。そうでしょ。


何か禁止してきた自分をほめたいんだね。
それがオーケーになったら自分がしてきたことは何だったの?あんなに我慢して・・・となる。心見え見えでは恥ずかしいね。
愚かな痴心を喜ばしたいんだ?そういう人は・・・
そんなのは犬のお預けと同じで少しも褒めたようなもんじゃない。

いいとおもうことはすりゃいい。
人がどういおうがすればいいじゃないの?

仏教徒は禁欲しないといけないと戦ってきた人なら、お酒飲んだり、妻帯したりしている坊さん見たら怒りがわく人多いかも。
そういうもんですが…こと仏教に関しては自分が好きでしているんだから、人はどうあれ自分流で行けばいいだけ。
人の在り方見て怒りがわくのはただの嫉妬かもよ。

もちろん戒は大事だけどただの我慢じゃない。
必要の理解がないなら意味ないですよ。ただの禁止事項になっちゃう。

逆にそれじゃ戒の冒涜です。理解が大事。
ご用心、ご用心。