金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

信じるということ


宗教は色々あるけど宗教的世界は立証とかはできないですね。
たとえば天地創造の神がいるんだということは理屈じゃないから立証できない。
内証の世界ですから。

その人がそれを信じることが自分にとっててよいと判断したんで信じているんですね。

私は仏教だからそういう天地創造唯一神はないというのを信じている。
まあ。そういう存在はあったにしてそれってよい面ばかりじゃない。根本無明という言い方もできる。

それって事実なんですか?
死後の世界はあるの?
人は輪廻するって本当なの?
知識としては死んだ体験記憶がないので知りません。
私はそう信じている。・・・というだけです。
私でなくたってだれでもそうじゃないの。
そのほかになにもない・・・それが宗教。

だから本当は論争しても無意味。
だって本当はお互い何も知らないんですから。知ってりゃ信じるとは言わない。
神とかほとけって哲学的思索の産物じゃないですから。
仏教だって唯識だの中論だの色々あるけど。まあそういう風に考えることができるというだけのことですね。
え、そんな不確かな…という人は宗教なんか信じなきゃいいでしょう。
「あなたが言っていることは真実だという証拠があるのか?」という人も昔いたけど・・・あるわけない。でもそんなもの無くていいんです。
「そんな不確かなものをどうして信じるのか?」と言われた。
「不確かじゃないものなんてないんじゃないの?,あなただって自分が確かだと思っているだけで」
例えば「霊なんてないよ。科学的に考えて」というけど科学に霊の定義がないのだから否定も肯定もできないでしょう。

何をどう信じて永遠や悠久に心はせても、せいぜい人間なんか60年から80年くらいの人生。
永遠のテーマを前にそんな中でそれをなにがどうわかるというんでしょう。
まあ、好きにやればいい。
哲学的思弁なんて趣味みたいなもの。
したってしなくたって人生に大した違いはない。
孔子はあしたに道を聞かば夕べに死すとも可なりといったけど、人生に大事なのは何がどうなのかではなく、どう生きるかということです。

私は仏教信じていることが今を生きやすいのでそうしています。それだけ。
他の仔細は一切ない。本当はそうなんです。
だからいくら論争しようが、たとえ論破されようがなんにも変わりません。

そんなの私に関係ないので。
理屈じゃなく究極言えば好きだからやっているだけです。