金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

悟れば立派な人になる?

「悟り」ってなんか勘違いしている人いますね。
さとれば自然と慈悲深く、社会的に立派な人物となると・・・
必ずしもそんなことないんですね。

羅漢さんっているじゃないですか。みんなちょっと変わったお顔をしている。あの人たちは世捨て人で虎や龍なんかとくらしているような感じ。
あの方々は行に勝れ、空理を悟ってはいる聖者だけど社会的側面は切り捨てています。
しょせんは空なのに世間のことなどどうでもいい。
そういう悟りもある。

社会的な礼節とか義とかは道徳修養のもの。
だから戒が大事なのですね。
上座部の戒律は悟りのためのものですから心を防ぎ咎を離れることが中心。大乗戒は衆生救済が重い。他者とどう接するか。十善戒を考えれば皆ほとんど相手のあることです。
だからはひたすら瞑想や念誦をしていたって立派な人にはなりません。
例えば終始一貫人跡未踏の山奥にこもっていれば空を悟っても存在としては野の鳥獣となんら変わらない。

仏教じゃなくても。あるいは無宗教でも無神論者でも深い慈しみがあれば、他者や社会を尊重すれば・・それは立派な行為であり、間違いなく立派な人です。そこに悟りはなくても。
はっきりいえばその方がむしろ大事です。

仏教徒のくせにとんでもないこと言うと思います?

でも正直なところ、わたしは傍にいたい、そして見習いたいのは羅漢さんみたいな人ではなく、悟りなんかなくても慈悲深く人を尊重する社会的に立派な人です。悟っていても偏屈で人とろくに接することのできない人なんか相手にしたくありません。

人がいかにあるべきなのかを考える。それを道心という。
「西には菩薩といい、東には君子という。」だから宗教の違いはそこは関係ない。
伝教大師の御心はそこにあると思います。