金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

荒神の思想


宗教の自然観は大きく二つに分かれます。
この宇宙は無明であり不可解なもの。
一方は宇宙はそのまま真如と不可分のもの。
仏教にはその二つの考えが併存します。
初期仏教の今日の世界観ではに世界は無明に満ちています。
全ての生き物は無明の中であてどもない輪廻を繰り返す存在でした。
仏教は当初からはこれを何とかしたいという課題がありました。

我が国の密教の代表者ともいうべき弘法大師においても「生れ生れ生れ生れて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに暗し」と言われています。
しかし、その一方大乗において大日如来や久遠の釈迦などの概念が登場し、その背景として本来自然が持っている知恵と仏の知恵は決して別物ではないという考えが出てきます。

これを現す適当な言葉として「自然智」という言葉があります。
かって平安時代には奈良県吉野山に「自然智宗」という宗派がおこり、その修行者は虚空蔵求聞持法を修してこの自然智を得ることを目的としました。山林修行を旨とする修験道の一派ともいえる。

今回は飯縄山で一洛叉修行者二名のお世話しながら浴油をしました。
行法中初めて三宝荒神如実に感じました。
いままではそういうことはなかったのですが・・・
三宝荒神は貪瞋痴の化身。そして聖天と同体です。

荒神の本体は「元本の無明」といいます。根本煩悩ですね。
煩悩は諸善を損壊するので荒神といいます。
しかし、その反面この根本煩悩は一面我々の生存を支えている大事なものです。
「末那識」という個我の根底となる潜在意識から発しています。
いわば自己保全の欲です。
ですから我々の財色食名睡の五欲もそこから出ています。
これがある以上輪廻はやまないので上座部仏教ではとことんこれを抑えつけます。
しかし大乗的に言えばそれは必ずしも否定するものではなくそのまま仏智とつながるものと考えます。断絶しているものではない。
渋柿は醗酵して甘柿になる
つまり大乗仏教には存在の肯定があります。
荒神はその二つの顔を持つ仏です。
笑えば中台八葉の仏、怒れば大荒神となる…という考えです。
末那識の奥底には阿頼耶識があり、そこには如来荒神、つまり悟りの姿の荒神が住む。故に如来荒神は六臂金剛薩埵の姿です・
だから我々の日々の営みもそのまま仏の所作であるということもできる。
もっと言えば他に仏の所作などというものはない。
修験道は明確にそこまで言います。

貪瞋痴の煩悩は悟りの心につながる。
そこは私は若いころ「煩悩があるから悟りがある」という師匠の教えを受けていましたが正直わからなかった。
長い間「じゃあ、悟りも煩悩もなけりゃ問題ないだろうに…」とそんな風に考えていました。煩悩をすっかり退治して悟りに行くのだと思っていたから、悟りのために煩悩が必要というのはまったく理解できなかった。
もっといえば人間は煩悩の存在。
人間だけでなく生き物はすべてそう。
だから煩悩を憎むのは存在を憎むことになります。
存在を否定して悟りを求める?なんのための悟りでしょう。
もっというなら煩悩にまみれた我らのために悟りが必要なので、悟りのために煩悩が必要なのではない。


悟りと言えどもまず、生きている我々があるからこそ求むべきものなのです。我々がいないなら悟りも無用の長物です。
だから悟り以上に大事なのは我々自身。なにをおいてもこの煩悩と罪穢れにまみれた我々なのです。荒神はわざわざ大障礙の身を示してそのことを教えてくれている。
荒神というのも如来というのも我々自身の事だと。

私も教えを受けたことのある真言宗の故 永田覚範先生によると荒神は聖天行者が最も拝むべき尊であるといいます。