ある講員さんから質問を頂きました
「今回の質問ですが、
「因果応報の業の法則は、大乗仏教 の空性との矛盾をどのように認識すればよいのか?」
という、問題になります。
専門的な天台の教学などでは、基本的すぎる問題かも知れませんが、素人が巷の本屋で得られる知識では、判断が不明なため、ご質問させて頂きます。
空性と言っても、多義語ですので、かなり範囲が広いと思われますが、
一般には、全てが空であるという、否定的な意味に追加して、
前や悪や時間軸や空間軸が、一つに畳み込まれて言葉では説明出来ない世界というのも良く見られます。
しか し、そうなると、因果応報の業の観念は、時間軸で過去から現在に流れており、論理的な言葉の世界の法則です。
空性の悟りを得たならば、俗に言う因縁などの、因果応報は解けてしまうのかどうかの話ですが、
今の所、2ヶ月ほど考えた結果、初学者の私が知っている限りでは、
くらいの既存の解答くらいしかありません。
この、悟りの空性と因果応報の矛盾の問題を、ご教示頂けたら幸いです。
以上宜しくお願いいたします。」
以下は私の答え
「全てがもともと空でしかないなら誰もがそれを知っているでしょうから空の説明などいりません。
空とは存在の否定ではなく、全ては完全に分離できないという「個の否定」です。
「空性」はまさにすべての構造は「因縁生起」であることとこのことは一つです。
つまり因縁生起であるということはそのまますべては時間軸上に不可分に存在するということです。
空性の理解とはこのことにほかなりません。それを頭の理解ではなく実感することが必要なのです。
ゆえに哲学では至らず、教解双修がいわれるわけです。
禅などでは宇宙をよく一円相で表現しますね。
小乗の阿羅漢が輪廻を出ないのだというのも畢竟、仏道修行や 瞑想も因縁生起のほかに出ないというのと一つです。
仏道で言う悟りとはつまるところ我々は何なのかという問いと一つです。因果の世界を出るのでなく質を変えるのです。
一例をあげるなら互いの所作が影響しあう故に天台の念仏は「融通念仏」です。一念三千というのも同じ理です。
凡夫の一念も覚者の一念もその理に変わりはありません。
たとえ悟ったといっても肉体の枠にいる有余涅槃のうちは飛行自在も、普賢色心三昧も表すことはできません。
実際歴史上の高僧もそういう人はいません。まして到底凡夫の及ぶところではありません。
全く因果を受けることの原理は一般人となにも変わらないはずです。
肉体がある以上は雨が降れば愚者も聖者も濡れます。悪人も善人 も濡れます。
ただ世間の無道心のものに比べれば悪因縁を作ることの愚かさはすくなくなるので災いを受けるようなことは少なくなります。
因果を超えるとは不昧因果ではなく、それを理解することによる上求菩提・下化衆生といった生き方が明確になることでしょう。
それゆえ仏道修行はライフワークなりというのです。
私の理解においては是のごとくです。」
補足すれば時間軸で言えば因果つまり因縁生起であることが空間的な表現で言えば一切空ということです。
同じことを言っているので相互に矛盾はない。
この空を有無のレヴェルで「何もない」と考えるとおかしなことになります。空性とはそういうことではない。
空の性格があるということが空性ですから、ではその性格のある存在とは何ですか?
我々の認識上の存在があることが前提でその性格として「空である」ことが説かれています。