金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

阿頼耶識の懺悔

恐山に行くと罪障消滅を実感する。
ここはいわゆる「気がいいとか」・・・「パワースポット」とかいわれてるようなところとは区別したい「霊場」。
こんな言い方はあまり仏教的ではない言い方だとは思うけど「魂が憶えていることを懺悔するのだ。だからだ。」と飯縄様は言う。
遠い前世のこともあるから記憶レヴェルや意識レヴェルではわからないけど、阿頼耶識レベルでそう思う。
ああ、申し訳ない、かたじけない!という思いが出てきます。
同時にそう思うことで罪は消えていく。思わない限り、これでもかと阿頼耶識は悪果を招いてそれを思い知らせようとするわけです。
天罰というのはこれ。実は自分がしています。
やった行為に対する恨みとか、罰とかじゃない。
不昧因果というけどその実態は私たちのうちにある心識のシステムです。
罪業の実態は隠された罪の意識。
閻魔天というのはその神格化です。他に閻魔はない。
そうした罪業の意識の集合無意識体が閻魔様。

八大竜王堂から恐山菩提寺山門を望む
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行為としても罪の行い自体は過去はもどらないからやったことは良くも悪くもやったことですが・・・
でもそれはどうのこうのいってもどうにもならない。
「打つ人も打たれる人ももろともにただひと時の夢の戯れ」という歌があるけどそういうことですね。
仏教で問題にする「罪業」は過去に去った罪の行為ではなくその記憶です。それを鮮明にすれば懺悔になる。
悪の認識は即懺悔です。
だから発露懺悔というのが大事。阿頼耶識レベルでも懺悔がおきる。

よく宗教的な行法や霊場に行って自然と泣けてくる。あれは魂、仏教的に言えば阿頼耶識の浄化なんだと思うのです。

恐山にもそういうものがある。
そういうフィールドの力の働く空間。それが恐山。
おそらくこの恐ろし気な硫黄ガスの吹き出す地獄の光景と地蔵尊の誓願のもと、沢山の人の意識がこの空間を作ってきたんでしょう。よそにはない空間です。
人間は人間を傷つけたり、害したりすれば阿頼耶識レベルでは痛みを感じるようになっている。
だから阿頼耶識レベルに嘘はない。極悪人でも。善人でもいっしょ。
一種の生理機能みたいなもんです。
恐山行くといいですよ・・・