白戸師匠は遍路を二回立て続けに回ったそうです。
弘法大師の導きで天台のお山に行く。この辺が面白いですね。
長尾寺様は昔は寺門派のお寺でした。
天武、天智、持統の三帝が産湯をつかった井戸。三井の霊泉がその名の起こりです。
対するに山というと山門即ち比叡山を言います。
さて比叡山では三搭十六谷という広大な寺領があり、師匠はそのうち西塔の真嶋先生の弟子にして頂いたのでした。
しかし、すぐに行院配属の指導員助手となり修行者の面倒を見ることに。
「三井流しか知らないので、」といったら「いや、もう加行済んでいるんだから、大体わかるだろう。いいから行け。」といわれた。かたわら山門の流派はもっぱら法曼流を学んだようです。
真嶋先生のおられた西塔なら、ふつう密教は穴太流ですが、法曼流は無動寺の流儀です。
無動寺と言えば千日回峰行のメッカです。
不動行者こそ我が行くべき道と思ったようです。
700日目の堂入りでは断食断水不眠不臥で七日間に真言10万遍を唱え。最後には同じ条件で七日間に10万本の護摩木を焚くのです。また距離も七年目には100日間、京都大回りと言って100キロ近くの距離を歩くのです。
そういう常人には及ばぬ行です。
でも大行満は「わたしは、前に弟子二人持ったが、どちらも育たずに終わった。だから弟子は持たない。」と言われた。
つまり自分はこのうえの弟子の養成はしたくないのだという意味を言われた。
当時を振り返り、「じゃあ禅宗の旦過詰めよろしく座り込み、入門を請うて頑張ればよかったのかなとも思ったけど・・・」そうしなかったという。
どうも意気込みの問題ではないように思ったからだそうです。
憧れの葉上先生から断られた。
思うにもうこの時、回峰行への師匠の心は離れたのかもしれません。
信貴山真言宗の玉蔵院の野澤密厳大僧正はその著書「洗心」で面白い逸話に触れておられます。
葉上大行満はなぜ貴方は10万枚護摩がしたいのか松本師に聞いたといいます。
松本長老は生駒の開山湛海律師が何回も焚いたという10万護摩を修行されたかったのだそうです。
それで、その話をすると「10万枚をそんなに何回も焚いたのか!なんと湛海さんというお人はよくそんなアホなことしおったもんやな。」と呆れ、「…松本君、やめとき。わしゃ本当に10万枚焚いたかどうかはわからん」といわれたそうです。
というのは、もうまったく意識がなかったのだそうです。
でも焚いているのは焚いている。もう亡霊のようになって炊いてはいる。おそらく数は最終的には10万枚以上焚いているでしょう。でも意識はない。そういうことだそうです。
行中に葉上大行満を診察した医者は「先生、あんたの体は死んどるで!」とその生理作用を診察して驚いてそういったそうです。そういう行なのです。
到底常人のなしうるものではない。
ずっと後になって叡南祖賢大行満から回峰行をやらないかと言われたがどういうわけか、白戸師匠はそれをそのまますぐに受けなかった。それで話は流れた。
叡南大行満は比叡山伝説の人で物に執着せず、小僧たちが失敗して貴重な寺の事物などを壊してしまった時も、嘘を言わなければ決して深くとがめることはなかったという。
世の中には物や趣味に凝ってそれが傷つくとか行えないと癇癪とどまらないなどという高僧?もいらっしゃるようだがそういうお方とは全く次元の違うお方です。
一方で、行の厳しさは峻烈を極めた。
叡南師の徳を慕って無動寺谷には常に百数十名もの門弟、信奉者が雲霞のごとく集まり、また多くの逸材を育てた方として有名です。
それだけの不世出の大人物でした。
まあ、でも縁は異なもので、不思議なことに白戸師匠は、この叡南大行満からの話を最終的にはお断りする形となり、ついに「回峰行」をすることはなかったのでした。
そうなれば聖天行者「白戸快昇」はおそらく存在しなかったし、ひいては私も師匠に出会うことなく、当然、聖天行者にはならなかった、否、僧侶にすらなっていなかったもしれないと思います。
長い目で見ればこういうところに縁の仕組みの神秘といいますか、つくづく因縁の不思議さがあるように思います。
続く