金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

比叡山へ


白戸師匠は遍路を二回立て続けに回ったそうです。
それでそんな中で香川県の札所である長尾寺様の紹介でご縁を頂き、比叡山に行くことになった。
弘法大師の導きで天台のお山に行く。この辺が面白いですね。
 
長尾寺様は昔は寺門派のお寺でした。
比叡山は寺門に対して「山門」という。古文書で「寺」とあるとしばしば寺門派の総本山「園城寺」のことです。
昔は興福寺東大寺比叡山と並び天下の四大寺院といわれました。
園城寺は別名「三井寺」といいます。園城寺というより通りがいいかも。
天武、天智、持統の三帝が産湯をつかった井戸。三井の霊泉がその名の起こりです。
対するに山というと山門即ち比叡山を言います。
だから「山の阿闍梨」というと比叡山阿闍梨さんの意味。

さて比叡山では三搭十六谷という広大な寺領があり、師匠はそのうち西塔の真嶋先生の弟子にして頂いたのでした。
しかし、すぐに行院配属の指導員助手となり修行者の面倒を見ることに。
「三井流しか知らないので、」といったら「いや、もう加行済んでいるんだから、大体わかるだろう。いいから行け。」といわれた。かたわら山門の流派はもっぱら法曼流を学んだようです。

真嶋先生のおられた西塔なら、ふつう密教は穴太流ですが、法曼流は無動寺の流儀です。
無動寺と言えば千日回峰行のメッカです。
生きながら不動明王の身となるという千日回峰行者。そこに強い憧れがあった。白戸師匠は不動精神教会にいた松山時代から、不動明王を深く信仰していたからです。
不動行者こそ我が行くべき道と思ったようです。
それで当時、旧帝大(東大)出のインテリにして千日回峰の大行満として知られた 憧れの葉上照澄大行満をお訪ねして、回峰行をやりたいという許しを得ようとした。

千日回峰行比叡山に伝わる相応和尚以来の難行で、ただ千日比叡山の峰々を歩くだけではない。
700日目の堂入りでは断食断水不眠不臥で七日間に真言10万遍を唱え。最後には同じ条件で七日間に10万本の護摩木を焚くのです。また距離も七年目には100日間、京都大回りと言って100キロ近くの距離を歩くのです。
そういう常人には及ばぬ行です。

でも大行満は「わたしは、前に弟子二人持ったが、どちらも育たずに終わった。だから弟子は持たない。」と言われた。
つまり自分はこのうえの弟子の養成はしたくないのだという意味を言われた。
当時を振り返り、「じゃあ禅宗の旦過詰めよろしく座り込み、入門を請うて頑張ればよかったのかなとも思ったけど・・・」そうしなかったという。
どうも意気込みの問題ではないように思ったからだそうです。
憧れの葉上先生から断られた。
思うにもうこの時、回峰行への師匠の心は離れたのかもしれません。

信貴山真言宗の玉蔵院の野澤密厳大僧正はその著書「洗心」で面白い逸話に触れておられます。
それは若き日の生駒聖天宝山寺の松本実道長老が葉上大行満をお訪ねになり、10万枚の護摩の指導を仰いだ話です。
葉上大行満はなぜ貴方は10万枚護摩がしたいのか松本師に聞いたといいます。
松本長老は生駒の開山湛海律師が何回も焚いたという10護摩を修行されたかったのだそうです。
それで、その話をすると「10万枚をそんなに何回も焚いたのか!なんと湛海さんというお人はよくそんなアホなことしおったもんやな。」と呆れ、「…松本君、やめとき。わしゃ本当に10万枚焚いたかどうかはわからん」といわれたそうです。
というのは、もうまったく意識がなかったのだそうです。
でも焚いているのは焚いている。もう亡霊のようになって炊いてはいる。おそらく数は最終的には10万枚以上焚いているでしょう。でも意識はない。そういうことだそうです。
行中に葉上大行満を診察した医者は「先生、あんたの体は死んどるで!」とその生理作用を診察して驚いてそういったそうです。そういう行なのです。
到底常人のなしうるものではない。
 
ずっと後になって叡南祖賢大行満から回峰行をやらないかと言われたがどういうわけか、白戸師匠はそれをそのまますぐに受けなかった。それで話は流れた。

叡南大行満は比叡山伝説の人で物に執着せず、小僧たちが失敗して貴重な寺の事物などを壊してしまった時も、嘘を言わなければ決して深くとがめることはなかったという。
世の中には物や趣味に凝ってそれが傷つくとか行えないと癇癪とどまらないなどという高僧?もいらっしゃるようだがそういうお方とは全く次元の違うお方です。
一方で、行の厳しさは峻烈を極めた。
叡南師の徳を慕って無動寺谷には常に百数十名もの門弟、信奉者が雲霞のごとく集まり、また多くの逸材を育てた方として有名です。
葉上大行満もまた深く叡南大行満を深く尊敬されて義兄弟とまで言い、天台宗史の上でも「天海大僧正以来の人物」と評していたといいます。
それだけの不世出の大人物でした。
まあ、でも縁は異なもので、不思議なことに白戸師匠は、この叡南大行満からの話を最終的にはお断りする形となり、ついに「回峰行」をすることはなかったのでした。
 
思うに、もし、この時、白戸師匠が叡南祖賢大行満の指導下で千日回峰行をしていればもともと師匠は不動明王が大好きでしたから、きっと比叡山に残り、聖天行者にはならなかったことでしょう。
大体が回峰行者の多くは弁才天、大黒天、毘沙門天のいずれかは拝みますが聖天はあまり聞きません。
(ただし、さきの叡南大行満も個人的には歓喜天の単身像を所持されて拝んでいたようです、その話は祖賢和尚のお弟子様の上原行照大行満からうかがったことがあります。)

そうなれば聖天行者「白戸快昇」はおそらく存在しなかったし、ひいては私も師匠に出会うことなく、当然、聖天行者にはならなかった、否、僧侶にすらなっていなかったもしれないと思います。
長い目で見ればこういうところに縁の仕組みの神秘といいますか、つくづく因縁の不思議さがあるように思います。

続く