金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

のど元過ぎればなんとやら


せっかく、講師までよんで修験懺法の講習したのに、・・・・またまた、この間言ったばかり。座布団の積み方は乱れているし。サッシは開けはなしだし、なんと竹製の珍しい鳥かごは転がして破壊して顧みないそのまま。
酷すぎ!このぶんじゃ1人として法を授けるには値しない。
法を盛る器になっていない。
そんなのに大事な法を盛るのは割れた盃に美酒を盛るのに同じ。


やれやれだね。まあ、いいでしょう。
このぶんじゃ今年はもちろん、来年も当分伝授はナシと思ってください。

来年は「修験三十三通記」を講伝開講する計画をしていましたが取り合えずこれ辞めます。どんどん遅くなるよ~。密教なんか到底無理。
御気の毒ですが。

でもこういうのは無視できません。
なぜなら私はこういうのは「見せられた」と思っているからなんですね。
神仏のメッセージで「先に進むのはこんなレヴェルだからまだやめておけ」という風に解釈しています。
そういうメッセージ無視して過去人物を見誤り、とんでもない非器に伝授してしまったこともある。
これホンマの越法になります。
伝授してほしいというのなら、平等にしてあげて親切と思われたい邪心があったからだね。私に。

だから金輪際その轍は踏まない。
自分の感覚だけで伝授したりしなかったりします。
少しでも違うな。嫌だなと思えばしません。贔屓に見えても関係なし。
贔屓上等です。
考えてみれば私の周りの已達の方々は全部そういう風でした。

勿論、本山関連の修行はどんどん許可しますので、どうぞ行ってくださいね。

だからご用とお急ぎの方はよその道場に鞍替えをお勧めします。(笑)
おひきとめはしませんよ。

まあ、考え直すとあと一年間くらい自分流で出来る範囲のことをいろいろやるのもいいでしょうしね。

台所も最近はお手伝いの信者さんはお断りして弟子見習の方にだけさせているのも意味がある。
中にはなんで?と思う人もあるかも
実はどういう出し方やかたずけをするのか見ているわけです。
私はちゃんとやっているのに・・・と言いたい方はじゃあ、次は人の分まで見るんだね。
そこからが本当の修行。
修行に担当なんか決まっていない。
だから最後の最後までを見て帰る奴だけが本物ということになるんだね。
この世界。
「ご用はもうないでしょうか?」そんなこと言ってから帰るけど、用があるのかないかは自分の目玉で見てからいいなさいということです。
私が口にしているのはあくまで私の知る存念のみです。他の様子は知る由もない。当たり前でしょう。

「座布団は運んだけど、サッシをあけはなしといたのは私じゃありません!」なんてこと言う人は。「ああ、そうでしょうよ。だからあなたはお呼びじゃないんです」ということになる。
別に全員集めてはガミガミ言いません。
そんなのどうでもいい人はこちらもどうでもいい人なので。
次回から私が点検すればいいだけ。

なんども言うけど修行に平等なんてない。
したい奴が残るだけ。
したくない人まで捕まえてとやかくは言いません。

そういう方は一般信徒様と同じですので「いやいや、お手伝いありがとうございました。」と申し上げるのみです。