つまり念仏為本の行によって生ずる世界。
これは教えてもらってそうなんだ…と思っていました。
宗派によって極楽の捉え方は違うようです。
天台の伝統では智者大師が一応「凡聖同居土」としています。
それについてどこかの真宗の方かなんかが一番低いレヴェルの浄土にしてあるのは変だとご意見されていましたが・・・確かに極楽は20億の仏土を研究した最高のお浄土ということになっています。
でも凡聖同居土って駄目なの?別に低い浄土というわけじゃない。
わたしは変とは思いません。
罪悪深重の凡夫が往生できる極楽世界なら理屈から言えば凡人も聖者も一緒にいる世界「凡聖同居土」でもいいはず。むしろ素晴らしい!
あるいはそうではなく、往生の一刹那、あらゆる罪を転じて聖者の流れに入ると考えるのかな?
でもそうだとするなら「方便有余土」ということになる。聖者の境涯の作った世界。
天台では「四土不二の常寂光土」という。常寂光土ではあるが四土不二だから、そのなかにほかのすべてのレヴェルの浄土が含まれるというんですね。
このレヴェルではそこに優劣はないんです。
たとえば天台の言う空、仮、中もどれが一番いいとかはない。だから三諦(三つの真理)という。
実土だとすると心土というよりずっとリアリズムが増すのでいいのですが、だとすると阿弥陀仏の前身である法蔵比丘も実在の人と考えないと整合性が取れない。
素朴な疑問です。実際そこはどうなんだろう。
法蔵比丘はどう考えても地上の歴史に収まる人じゃないでしょう。
だって20億もの仏土を廻ったのだから一代、二代の修行じゃ無理
だとすると他天体の方かしら。私はそれでもいいと思うけど(他天体にも生物はいると思うので)・・・そこのところの解釈はどうなのか?
私は別に「そんなのおとぎ話だ」とは思わないので「実在した」といっても少しもおかしいとは思わないんですが…
別に批判じゃなく素朴にどう考えているのか知りたくはある。
何かの折に浄土宗の方にお聞きしてみたいですね。
そうは言うもののほとんどの天台宗徒もまた極楽は実土と思ってるでしょうね。四土不二だの己心の浄土だのと言われてもピンとは来ないだろうし。
まして己心の浄土であり、それは行者の境涯であるというならそれが悟りでなく。あくまで信心でなくては変だろうと思うのです。
観経疏のいうところの深心、回向発願心、至誠心と言い換えてもいい。
少なくともわずかにでも悟っていないと往生できないのであってはおかしい。それこそ阿弥陀仏の本願の意味がない。
また、そうでなくては智者大師の言う凡聖同居土にはなりえないでしょうから。
浄土門の方々、所詮は雑業雑修の行者の言うことです。
笑ってお許しあれ。