金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

聖天尊との出会い

 
福生寺では家相が悪いからというならそれもいかようにも直す、姓も白戸のままでいいから来てくれとまで言ってくる。

白戸師匠はこのころまだ聖天様については詳しく知らなかったのですが、大自在天と観音の化身と聞いていたので調べてみると夫婦で降三世明王に踏まれている図像が出てきてなんか非常に嫌な感じになったといいます。
でも天満宮と一緒の神様なら自分には縁があるのかもしれないということで最終的には行くこを決断しました。
でも養子にはならないので姓は白戸のままという条件で行きました。

それでその時の御座主である筑摩秀湛猊下から聖天供を授かっていくことになった。

お座主猊下も聖天供をする人でした。勿論忙しい座主のお体で聖天行者は無理ですが一年に一回浴油を修された。
それで自分は座主に成れたのだと思うと言われました。
でもお金は手に入らなかった。人間はお金も名誉もなにもかも…というわけにはいかないと猊下は言われた。
御座主さんの御自坊はかなり手をくわえないといけないままの状態だったそうですが、障子紙などは破れたままだったそうです。
このお話には深い教訓があります。聖天信仰で成功して「あと、○○さえ」あればと思う方もあるだろうけど、実はそのないという○○がほかを支えているんですね。
「なにもかも、すべてが手に入ることはない。」
これは生駒聖天の故松本実道長老もそうおっしゃっている。
松本長老は生駒山貫主西大寺の長老までなられた。
でも期待していた最愛のお子様が亡くなっているんですね。

スピリチュアルな講座なんか行くとすべてが手に入るイメージワークをやったりしている。それはそれでもいいけど結果は手に入らないものは必ず出る。
でもそれは問題なのじゃなく、必要なことと考えたらどうだろう。これがないからこそほかがある。
「この世をば我が世と思う 望月のかけたることもなきと思えば」とうたった藤原道長卿もこの歌の直後から子供に不幸はあるわ、自分は病になるわでガタガタになった。まさに望月(満月)は満つれば次は欠けるのみです。
彼などは三井寺の大檀那でしたから、日ごろからいかようにも力ある僧侶を選び加持祈祷させていたと思うのですが…。

これに対して尼子家の忠臣、山中鹿之助は三日月信仰です。これから月が満つるんだという信仰。
いいですね。
具体的には三日月は荼枳尼天と関係あります。山中鹿之助が荼吉尼天拝んでいたかどうかは知りませんが。
でも「我に七難八苦を与えたまえ」と言った彼は、何が来たってこれからいくらでも可能性があるということでしょう。満つるのはこれから。
だから三日月信仰です。
尼子家再興は果たせませんでしたが、彼は老境に至り将軍家光から所望され親しく、戦国往時の合戦の話などしては若き将軍の血を沸かしたといいます。
望みは叶わなくても自分の道は最後までしっかり見出したのですね。
人間それで上出来です。望みは望みです。

宿曜道やると破門というのがある。でもこれ誰でもある運勢の弱いところです。どこに入るかは人によって違う。他の運命学だって空亡と言ったり、五黄と言ったり、死門と言ったり…なにかしらその人の人生のウイークポイント、必ずそういうのがある。それを早く悟れば人生により道は少なくなるでしょう。運命学はそういう風に使うものです。
よく開運占いとか書いてるけど本当の「開運」とはそういうこと、ないものねだりではない。だから聞く側にも用意はいるね。面白半分に軽々しく「どうよ」なんて見てもらうもんじゃない。

それから猊下は言われたそうです。
「君は圓頓戒を受けておるか?」
「ハイ受けました。」
「なら、君は菩薩僧だね。菩薩は菩薩行をするものだ。その菩薩行のために聖天尊に力を借りるのだ。菩薩は天部より上の存在。その菩薩が下からご利益を天尊にねだるようではおかしい。汝は菩薩行を助けて我に力を貸すべしの心でいきなさい。」といわれたそうです。
このことは白戸師の心に深く残りました。

勿論菩薩だといってみたところ有漏の依身ですからただの人間です。観音や弥勒のような…というわけにいきません。
対する聖天尊はすでに大権垂迹の尊ですから内証は我々よりはるか上の存在。でもここにその大権の聖者が、未熟な人間でしかない行者を菩薩として、象があたかも調者にしたがうごとき構造が密教にはあるのです。
それをする理由は上求菩提下化衆生の志の一事のみです、
これこそ至極の方便です。

法華信仰では正直に方便を捨てよというのですが密教ではその方便を持って究竟とするのです。
この秘事を聞き違えてか、世の中には祈祷によって天部を自在に駆使して我欲をかなえられると思う勘違いの人いますがそういう人は、たまさかうまくいったようにみえてもじきに本尊のふりをした魔物に取り込まれるのが関の山です。
 
この一事を深く胸に刻み白戸師匠は東京へと向かったのでした。
 
つづく