金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

大杉漣さんの「教誨師」を見て思う


昨日どうしても見たい映画があって浴油を早めに拝んでみに行きました。

大杉漣さんのプロデュース、主演で「教誨師」。
大杉さんご自身がカソリックの教誨師役で出ている。
残念ながらこちらは大杉漣さんの遺作になりました。

この映画を見終わって思ったこと。
「とっても私じゃなれないな。教誨師は」という感じ。
第一私みたいに死刑を是としている人間がやれる仕事じゃない。否定派ももっとだめだろうけど。
死刑の是非から離れないとダメかも。個人的にはあっても語らないとか。
むしろそこらあたりの人間の赤裸々な部分は引っ込んでいる方がいいのだろう。宗教の顔で行く。向こうさんも本筋から言えば宗教を知りたいわけだから。
映画では宗教措いて体当たり的な場面もあったけどね。

私は教誨師じゃないけど服役している人から請われて会いに行ったことはある。何度か手紙でやり取りして終に会いにいた。無論全く知らない人ですけど。
その人は窃盗の前科6犯だけどしまいに相手のクチから犯罪自慢みたいのが始まって・・・しまいには「黙れ。この不届きものめ!」と怒鳴りつけてと予定より早く帰ってきた。
それから手紙は来ない。

矢張り教誨師にはなれないね。(笑)

この映画の中でとっても共感できたのは「人生の目的」みたいのについての話。
日ごろから挑戦的で追い詰めてくる受刑者の問いに答える教誨師。生きる目的とは何か?「生きる目的なんてない。」
「いきているから生きる!」それだけ。

これ私も日ごろ聞かれて言っていることです。
目標がなくちゃ生きてちゃいけませんか?
本当はそんなのどうでもいいと思う。人生を面白くするゲームみたいみたいなもんでしかない。もしそれがないと無意味なら猫も魚も花も虫の人生?も無価値?そんなアホな。

私の師匠も教誨師へのお誘いもあったらしい。でも加害者のケアがなされる一方、被害者側や遺族は措いておかれている現状になにか矛盾感じて辞めたと語っていました。

日本の法制度からなかなか死刑はなくならない。
我が宗も「今回も残念ながら死刑が執行されました。本宗としては…」という挨拶で宗議会が始まることも多いけど、正直私は端的に死刑の執行自体を無条件に残念と思ったことはあまりない。せっかく人と生まれてそうせざるを得ないことはたしかに残念でしょう。
執行されなくてもあったほうがいいと私は思うけど・・・
なくせ!という人は社会に人間として復帰するのが刑罰なのに殺しちゃ無意味というんでしょうね。でも最近はその死刑廃止になった欧州の国から終身刑の方が残酷、死刑に戻したらという話も出てきている。難しいね。

だけどそれはそうとして人間って牢屋に入れたらそんなんで変われるのかい?大いに疑問です。出てきてすぐ同じ犯罪やる人もいる。
娑婆は住みにくいのでわざと犯罪で牢屋に行きたい人もいる。
単純に牢屋で懲らしめるという考え、何かがかけている。

「教誨師:パンフ」から
イメージ 1
 
イメージ 2
私思うのだけど未来的には人間の権利を尊重する刑罰なら、まず被告側からこれこれこういう刑が相当だと思うというの出したらいい。
求刑をだしてもらってそれを法廷で取りざたしたらいいと思うよ。
弁護士も無罪とか被告の権利とかばかり言うのじゃなく「このへんが妥当と思う」という被告による求刑のアドバイスがあってもいい。
基本的に判事はそれを通すか否かをさばく。検察はそれじゃ甘くないのかとか・・・そういう裁判がむしろ未来的にはいいように思う。
たとえば死刑求刑なら昔の切腹と同じで責任取りますと言ったことになる。
それでもいいでしょう、自分の命ですから。死刑を人が決めるだけというほうがはるかに非人道的だわ。

だって一方的に何年と決めて罰してもそこに理解はないだろうから。
終わるまでじっと我慢すれば元の木阿弥

この考え、勿論人殺しておいて私無罪ですということでも主張は自由だけど、通らないと差し戻し。死刑もありうる。
シロウト考えですかね(笑)
これでも極短い期間だけど一応法律家めざしていた時期もあったんですよ。

それはそうと大杉漣さん、やすらかに。ご冥福をお祈りします。
良い映画でした。ありがとう。