金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ナガエ先生の事

N先生は武術の方は相当の腕前でした。

大分晩年にボクサーをしているという人がやってきて話をしているうち。「おう、話だけじゃ納得いかないだろう。おめえ俺を殴ってみな。顔はやめろよ。これ以上まずいツラになっちゃいけねえからな。それ以外ならいいや。」と言って腕を殴らせた。軽く打ったのを「もっと、本気でやれや。」と言ったのでさすがに二度目は本気で来たらしい。
結果、「どうだい。おめえの手の方が痛いだろう?」と言っていた。相手は拳を撫でて不思議がったという。
 
その先生が台湾の黄先生と並んで師事したのがナガエ先生でした。時期的にはずっと後です。
ナガエ先生の漢字表記は忘れたのでナガエとしておきます。
ナガエクマゾウ(たしか永江熊三?)という方です。
ナガエ先生は宮城県のお侍の家系の方です。
片目を負傷されて義眼でした。

子供時代、ケンかが滅法強く、そんな折、叶わないと見たある子供が家から矢をもってきて顔面目掛けて投玄関つけた。
それが片目に当った。
ナガエ先生が顔面に刺さった矢をぬくと目玉も連れて抜けてしまった。
でも「侍の家の子供は泣くものではない」と教わったので泣かないで病院にその目玉のついた矢を持って歩いて行ったそうです。普通なら泣くどころか気絶する人もあるでしょう。ショック死することもある。
昔の戦場では矢があたってショック死というのは少なくなかったそうです。

「先生よう。・・・これをもとのように付けてくれ。」
「それは無理だ!」とこのありさまに医者もたいそう驚いた。
なにせ目玉のついた矢をもった片目の子供が現れてそう言ったのですから。
それ以来、義眼だそうです。
N先生にナガエ先生は「おい、Nさんよ。目玉というものはずいぶん水っぽいぞ。水がうんと出た。」と笑って話していたそうです。
 
ナガエ先生と武術の出会いは子供時代あることで、どこからか、たまたま街にやってきた「柳生心眼流」の先生に出会って無性に武術をやりたくなったことからだそうです。
柳生心眼流柔術とは言っても「小具足甲冑柔」といい、戦国時代から伝わる戦場往来の打撃や体当たりもある勇壮な拳術といってもいい。
私もN先生について心眼流は少しやりました。
 
それで急いで家に帰り「俺は三男坊だから家もいらね。金も要らね。だけど武術やりたいから、それだけならわせてくれろ!」と親に手ついて頼んだ。
よくよくのことと見たのか、親御さんも家の離れにその先生を招いて、しばらく住んでもらって教わることにした。
その先生はどこかに妻子があるらしく、ナガエ家でもらったお金は時々どこかよそに送金していたらしい。
勿論、生活一切をナガエ家が支弁した。時には女郎屋にいくこともあったらしい。
 
それで何年かたった、ある日の事。
その先生は「・・・もうお前に教えることは何もない。さらばだ。」といって棒一本に風呂敷姿でまたいずこかにそのまま消えていったそうです。
 
少年時代のナガエ先生にはもう一人あこがれる武術家がいた。
棒術の名人。ところが、この人がときおり乱心し暴れて大変なことになる。
それで村の消防団の若い者が総出で取り押さえに行った。
でも名人は彼らが手にしたピッケルを棒でピンピン器用に跳ね飛ばしてしまって近寄ることもできない。
それである知恵者が屋根に上って泥を浴びせた。
泥が目に入ってさすがにもう動けない。
名人は棒を潔く放り出し、どうにでもしろと言ったらしい。
それでとりあえず村はずれの小屋に押しこめ、三度の飯は運ぶということになった。
それでナガエ少年はそこにこっそり会いに行った。窓の外から「なんか先生、欲しいもんはないか?」というと「そうさな。タバコをくれ。」という。

それで差し入れたのだが運の尽き、それが火の不始末につながったのか。その先生は小屋が火事になってその晩に死んでしまったそうです。
そういうショックなことがあったそうです。
「なんとも気の毒だったなあ…」と言っていたらしい。
 
ナガエ先生は大変厳しい人でN先生が関東から定期的に習い行っていましたが、時折「今の玄関の入りようはどうだ。そんなのじゃもう切られて死んでいるぞ。ダメだ。帰れ!」と叱られる。

そんな風な人だからその練習の厳しい事。
武術が三度のメシより好きな弟子連中とともに行くのだが、それでもその人たちでさえ音を上げた。
私はもう武術はやめていたけど、私の同期や後輩がついていって最後までほとんど残らないくらいでした。
それでもN先生はこの時からナガエ先生がなくなるまで弟子についた。
 時にもう50歳はとうに超えておられたでしょう。

この勢いでN先生は相当晩年まで終生武術の探求をやめることはなかった。
必要なら自分がいくつになっても弟子の礼を取り習いに行く気のある人であった。
人間そうじゃなくちゃ!
終生探求!生涯修行。私はこのことはN先生の身をもって教えていただきました。
 
もう70歳くらいになった時に家で少林拳で使う二丁の短刀をふるって見せてくださいましたが、わずかな動きでも力強くビュンビュンと音がする。

「おめえ、やってみろ。」というので同じようにやるが私ではそんな音は出ない。「なさけねえなあ。ジジイの俺だってできるのに。」と笑われた。

このナガエ先生の武術というのは…やめて置きましょう。
「我が流派は流祖、流名を言わず」という流派ですから。
N先生にも流派の名前は最後の最後に教えてくれたそうです。
ナガエ先生はそれまでは流名を聞いても「何流だって関係あるまい。強くつかえりゃいいんだ。武術に名前なんかどうでもいい。ヤワラだ。ヤワラ。それで十分だ。」としかおっしゃらなかったそうですから。