金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

なんでも武器になる

ナガエ先生も武器は棒が得意でした。
ナガエ先生の流派では短棒を八本を帯にさして、敵に近づくほどに次々と投げつけて敵の隙を作りそこを斬る。
私は短棒の打ち方だけ習いました。
 
昔、あることで土地のヤクザと衝突した。
それで組の事務所に乗り込んで、棒を振り回した。
気が付いたら皆逃げて誰もいなくなっていた。
「ヤクザなんざ存外弱いわ」と言っていたそうです。
でもあとから関東の暴力団本部から話があるというので呼び出しに応じて単身でいったそうです。
それで組長と会って話した。「ありゃあヤクザでも大もんだわ、あの組はでかくなるぞ。」と思ったそうです。
そうしたら関東一の組になってしまった。ナガエ先生はそんなこと知らないから「へえ、やはりそうか!」と言っただけでした。

そういう人だからどこ行くにも武器は持って行った。
N先生の家に行くにも武器は持っていた。
「先生なんだかもっているもの、物騒だから出してくださいよ。」といったら「そうか、俺を襲わないというなら出してやる。」といって鎧どおし(兜を上げて敵の首に差し込んで人を殺す武器)が出てきた。
まるで時代劇です。
でも武器を持たないまでもそういう用心は大事だとN先生も言われました。

昔は何でも即席に使って武器にする。
たとえば、お膳の席で襲われれば箸も使う。「箸ぐるま」という術がある。
囲炉裏には常に鉄瓶をかけておく。敵が来たら天井に投げ上げて熱湯のシャワーをお見舞いする。囲炉裏の灰は目つぶしになる。あるいは舞い上げて敵の目をくらます。
御飯でさえ武器になる。そこらにまいてしまえば踏んだ人間は足の裏が心地悪く動きは緩慢になる。
風呂に入っているとき襲われれば、手ぬぐいに水を含ませて叩けば、敵の得物をからめとることもできる。

先生の家に行ってはそんな話ばかり喜んで聞いていました。
だから私が習ったのはリングで技を競うような格闘技ではなく、あくまで身を守り敵を倒す手段としての武術でした。
そういう世界は卑怯も何もない。格闘技のようなルールはない。生き残るためのありとあらゆる手段が考えられている世界です。
極論すれば強いも弱いもない。
何がどうであれ生き残ることだけが勝利の世界。

寺の信者さんなんかに「それって精神修養でしょ。」と聞かれて「いいえ、身を護るためだけに習っています。それ以外に理由はない。」と答えると呆れられた。本当にそれ以外考えていませんでした。
でも武術にも学びはたくさんあった。
なんでも使いようでは武器になる。そうか・・・
この話は私にまた別のヒントをくれました。