金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

特別な修行


うちは小さいながらも鎌倉市唯一の非営利動物展示施設になっています。
動物見せてくださいと訪れる人もおります。

こんな風だから当然動物のケアは日常茶飯事。
これがまた時折来てくれる修行者にはとても良いものも与えてくれる。
とはいえこれは作業としてやってしまえば何にもならないのです。
ただメンドウなだけ。
修行にするにはまずよく動物をみなくては駄目です。機械的に掃除して餌をやるだけなら修行としては何にもならない。
動物が何を求めているのか?それは単純なこと。
餌か、水か、温度か。はたまた調子悪いのか・・・・そういうことのいずれかです。
人間ほど複雑な悩みじゃない。
それをいち早く見て取る。そういう修行が必要なんですね。
ことに人を相手に祈祷したり、相談したりの場合は。
動物もわからず。複雑な生き物である人間のことなどわかりません。

「人間には言葉があるだろう」って?そうでしょうよ。
でも私達は声なき声を聞かないとダメなんですね。
たとえ言葉はあってももう一つその裏で動くものが見えないとこの仕事はただのご相談業にしかならない。
ただのご相談なら案件によって医者へ行くとか、法律家に行くとか、心理療法に行くとか…そういう識者やスペシャリストに尋ねればそれで事足りて、しかもその方が正確です。
何も行者なんかに訊ねなくていい。
裏に流れているものは何かを知りたい人だけがくるんです。

実際、もくもくとただ機械的にやっている人はしばしば動物に攻撃される。
何故か?
いくら良くやれててもそういう人は動物に話しかけていない。
声や音立てずに近寄るものは動物の世界では敵です。
だから攻撃する。
自分の存在を相手に伝えないとダメ。実はそういう訓練になっている。
おおげさにいうと動物相手でテレパシー養う。

しかもその様子まで慮ってよくみておくことは慈悲がないとできない。
動物の様子を・・・。どうでもいいやと思って作業的にやっていれば死にかけていてもわからない。そういうもんです。
慈悲つまり同悲と共感を養いたいんですね。
動物を、もの扱いしてたらできない。
キレイにゲージを掃除しても水やりわすれて小鳥死んだりとかするのは、動物をものとしか見ていないから。
そこがほかの修行と違います。
ましてや、きちんとやらないと動物より私が文句をたれるとかそんなことしか頭にないのならばやらない方がましだわ。

だからそういうのはここでしかできない無二の修行なんです。
草むしりや仏具磨きのような単純作業で精神集中するのがいいのではという人もある。
なんでこんなつまらない事やらせやがってと思う人もいる。
もっとお寺らしい、仏具磨きとか、草抜きとかがやりたいのにと思う人もいるでしょう。そういう反復動作は一種の軽いトランスに入れます。
山を歩くのもそう。
だけどそういうのならうちでなくてもできる。
自行としてはいいけど、実際は人と向かい合い人を拝む上という仕事では何の練習にもなりません。
そこ行くと動物の世話。
そういう気でやれればこの上ない修行なのにね。
相手は草木や器物でなく動物と同じ生き物ですから。
だから将来人も祈願までするならこれは重要なんです。

何も得られないのは修行ってただ黙々、ひとつことをやるものとしか思わない人。
そういうのだけが好きな人はうちは眼鏡違いですね。
作務衣着てよそのお寺へ行って作務らし~いことしたらいい。はた目にもその方が修行者っぽく見えますからきっと自己評価も高いよ(笑)