金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

行者のやり方は


私のような祈願の方法だと一人一人ご祈願するから当然限界は来る。
もう臨界点に近い感じ。これ以上は一人では無理ですね。

思えば私の師匠も四六時中拝んでおられた。
息抜きと言えば仕事で関西に行った間に生じるわずかな私的時間のみ。
先生は関西にいっぱい叡山時代の信者がいた。
東京に行っても年一回は戻る約束してきたといいます。それ以外にまとまってやすむことはなかったですね。お寺に行くと四六時中、人型切っていた。付きに300枚くらいは優にあったと思います。弟子である我々も手伝いはしたけど知れたもんですね。
先生は上手でしたから我々では…というより字が至って下手な私では手伝いには限界があった。(私以外のお弟子さんは皆字が上手です)「あんたのお次第は他人が読めないね」とよく笑われた。
行者は拝むのが使命だけど、さすが晩年は「しんどいわ~」とよういっていた。
浴油なんか3時間から5時間は拝んでいたから・・・すごいよね。
私なんか2時間一寸でもエライ。
それで70歳で亡くなった。健康診断にいってどこも問題なく健康だったけど急逝された。「なんともなかったわ~」と言われていたのにね。
結局、死因はというと・・・私はオーヴァーワークで過労だったのではと思う。
「このやりかただと・・・いつまでたっても新興宗教作るみたいにはいかんね。うちは信者増えるほど楽じゃなくなる仕組みだから。」と言って笑っておられた。
そこへいくと新宗教には信者にやらせる秘儀があるからね。教祖様が全部やるわけじゃない。大事なとこだけ抑えて外部流出しないようにしているだけであとは指導者作って鼠算で増やす。だから増えれば増えるほど自分は拝まないでいい。大教団になると教祖様は個人の祈りなんかしないという教団がほとんどでしょう。
独特の秘儀と伝授システムと特異性のくくりで行くのが新宗教のスタイル。

そこは密教行者とはやり方、あり方が違う。全部基本は昔からあることだし。
密教祈祷は自分がしないで素人に秘儀教えて信者を増やす・・・とはいかない。くくりは信者でなく、受戒を受けた人間や入壇した人間という規定がある。そこは曲げられない。
曲げている奴もいつけどそれは厳密にはもう密教的であっても密教ではない。

先生と同じように死んでいくのは行者冥利に尽きるので望むところですが・・・死なないまでも、私も近々どっかで講員外の祈祷依頼については特殊行事のほかは全部辞めるか、一部お弟子さんに委託しないとこれ以上は無理だなと思うのです。
最近はそんな感じ。