金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

パワハラ時代の共通了解。


現代社会ではパワハラの話をよく聞く。
私たちが昔受けた様な小僧修行はもうないのかも。
たとえば用を言いつけられたら「ちょっと、待ってください」などとはいえない。
直ちに持ち場を離れてその要件を満たす。
もちもん離れる際に適当な処置をしておくのは当然です。
新しいことを言いつける側が責任があるとばかり言えないのです。
「バカ者!」なんて怒られるのは日常的で当たり前でした。
叱責は当然、場合によっては蹴る、殴る。

私は暴力はいけないと思いますね。それは寺にあってはならない。

でも・・・そのほかは修行における共通了解の世界です。
つまり修行させる側と修行させてもらう側です。
その了解がないと修行にはならない。
ボクシングや空手の道場で練習で殴られても訴えるようなものになってしまう。

今の仏教では信仰もないままに寺を継ぐだけで修行に来ている人も多い。
だからそういう共通了解は限りなく怪しいですね。

寺を継ぐために来ているので修行なんて望んでない。
そういう本音が建前化して、寺を継ぐために研修に来ているのに罵詈雑言を浴びせたというパワハラの訴えが将来はあるかもね。
拙寺でさえきつく注意を促すと「なんで怒鳴るんですか?」というものもいた。
「お前はもっと,丁寧にわかるように言え」ということでしょうか。
悪うございました。おそれいります。

分かるようにきつく言っているんだけどいまやそういうのは無駄です。
・・・なるほど、いかなる局面でも対等だと思っているんですね。
でも、指導する側が偉そうにする必要はないけど、指導を受ける側はそこに指導に対しへりくだる謙虚さがないと無理。

そういう気持ちのないところに本当の修行はないね。
修行ごっこ。観光客相手の一日体験僧侶みたいなもの。
そういうのが修行だと思っているんだね。
なんかあれば逆に切れる「おいっ、サーヴィス悪いぞ!どうなってるんだ」みたいな。(笑)
そもそも修行ってただ肉体に負荷かけたり知的理解や技術の習得にとどまるものではないのです。
あらゆる場面を想定しての人間対人間のギリギリのシュミレーションが修行だと思う。
そうでなければ修行しても役にたたない。少なくとも大乗仏教ではね、
それだからこそ世間でも応用自在なんです。
寺の中でしか役に立たないことなmんか修行の本質ではない。
そして実際にはそういうのは怒鳴られたり、怒られたりする中で学んでいくことが多い。

そんな中でようやく気づき、先輩のしぐさややり方から学ぶという大事な方向が開けます。そこが第一歩。
「怒られて私傷つきました!どうしてくれるのですか。」なんていうのはもう問題外です。
あるお山では叱られたら、即座に「ありがとうございます」と言えとまでいわれた。
どなりつけられた挙句「礼を言わんか!」ともっと怒られる。
実際そんなもんですよ。
ホントのいじめであってもそこから何か引き出せてこそ修行。
そういうのじゃなきゃ本当の役になんか立つものか。
だから小僧同士でいじめやトラブルがあっても師僧は一々に仲裁になんか入らないのが普通です。犯罪行為や不正でもなきゃ小学生じゃないのでトラブルのつど言いつけるなんかあり得ない。

ウ~ン・・・でも本人が希望しないなら、そこに共通了解はないから、修行と称するお遊びでお客様として遇するのみですね。

訴えられちたりしちゃたまりませんから(笑)