金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

三毒を除く


聖天信者の礼拝作法には普通密教立ての作法ならあるべき十善戒がない。
どうせ守れないからということなのかどうか知らないけど・・・それではいけない。それでは仏教にならない。
…ということでわが師は「怒らない」「貪らない」「愚痴を言わない」「素直」「正直」の五つの約束を設定された。
師匠の寺の大井聖天さんは今もこれで指導されていると思う。

うちでは特に五つの約束を言わないけど代わりに在家の五戒を授けている。
まあ。でも五つの約束の方がわかりやすいかもしれません。

五つの約束はダイレクトに貪瞋痴を戒めるものですから仏教徒であればだれでも必要な基本です。五戒だってこれがもとです。
要は「三毒の煩悩 貪瞋痴を除く。」ということ。
白戸師匠はいつも「五つしかないから簡単でしょう?」といわれていたが実際はかなり大変です。それはそのはず。考えてみればこのうちに仏法が集約されているのですから。

一番いけないと教えられたのは瞋り、一時の怒りで聖天様からみはなされたり、絶縁される人は多かった。誰であれこっぴどい目にあわされた。
自分が誤っているのに猛烈に激怒してその日のうちに死んだ人もいた。

貪りもいけない。
人間は慎みということがないのを下品という。とれるものは何でも取り、もらえるなら何でもどこまでも、もらおうとする卑しい心は下品の極みである。
程を知るということ。無用のもの、分限を超えたものは欲さない。
そうでないとそれは必ずやおおきい禍のタネになる。
思い切り、欲張っていいのが聖天信仰だと思っている人がいるがそれは大きな誤解です。そうして赤裸々に醜い欲望をさらして自ら人格を下げることのどこが一体、仏法だろうか。

最後の愚痴は愚かさだが師匠はこれを端的に「愚痴を言うこと」と教えていました。少々意味が違うというと、「愚痴とは因果論に暗いことだ。
全て身から出た因果と思えば愚痴や責任転嫁の言葉は出ない。」と言われた。
深い智慧のある言葉だと思います。

師匠はいくら一生懸命お祈りしてもこの五つの約束から外れれば聖天様から見て受け入れてもらえないと言われていたが、そういう設定をされれば聖天様もそう動くんですね。何せそれを聖天の前でお約束するのだから。

まれに「先生、私、いくらお約束を破って何も罰が当たらないんです。私って聖天様にすごくご縁頂いて愛されているんだと思うんです。」という人がいると笑って「アンタはもう聖天さんに相手にされてないんだ。」といわれた。
同時に師匠自身もそういう人はもうまともに相手にしなかった。
本尊がもう相手にしないような人を自分が相手にしても無意味と思われたのかもしれない。
大きな声を出したりしない方であったが、いうことが的を得ていてその意味ではとてもキツイ方でした。

最後の素直と正直は法華経信仰です。自我偈の「柔和質直者即皆見我身」から出ているといわれました。
師は悟れる人は素直で嘘がなく身も心も飾らないが持論でした。
私が考えるに同時に素直で正直にあることこそ、そのまま最高に幸せだということかもしれません。