聖天様の信者さんはずっと付き合ってきた。もちろん多くはまじめな人々でした。
でも稀にだが私もとんでもない自分勝手で鼻持ちならない二度と会いたくないというような人もいるにはいるね。
実はそういう人が聖天様の株を一人で下げている。
そういうことはある。
同じ「聖天信仰」でも「信仰」に比重をかければ信仰する者の在り方というものがあるので皆さん一応に善男善女であるが、「聖天さん」に比重をかけると「何でもかんでも叶う」に執着するので思い切り下品で勝手な願いに執着する人もなかにはいるわけですね。
そういう経験から聖天様の祈願は誰でもはダメだなと思いました。
仏教勉強してもらわないと・・・それで講員制。
だからそこは祈願料はいくらでも出すけど講員は嫌なので免除だなどと言われてオーケーするなら講員制度にしている意味はない。
そういう人は金さえ出せば、他人も何でもするものと思っている。
自分がそうだからでしょうね。
私の師匠も当時は飛ぶ鳥落とすヒット映画なんかも作る社長さんが突如見えて直ちに浴油で祈ってくれと言われたけど、浴油は期間がきまっているのでそれはできないと断った。
さすがわが師だ。
聖天様は行者の考えに随って動く。そこが象頭人身の意味。
行者が命じたことはしてくださるが罪はそれを命じた行者にある。
ゾウさんは調御者次第。その象徴が象頭人身の姿。
カラダは人間だから何であれ人間界のことは全てできる。
そこが怖い。
だから祈祷行者たるものは皆そうだと思うけど、とりわけ聖天行者は自分の行者としてのポリシーやモラルをしっかりもたないと相手に巻き込まれて大変なことになります。