金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

君子の交わりは水のごとし


君子とは「聖人・君子」とひとくちに言いますが君子と聖人では大きな隔たりがある。
儒教では聖人は孔子様だけということになっている。
君子は我々でも君子になれる。
君子とは伝教大師は「道心ある人を西に菩薩と呼び、東に君子と呼ぶ」と言われていますので人のあるべき在り方を求める人と思っています。
べつに完成された人でなくても道を求めるものは君子です。

私なんかもおよそ君子と言えば他人様が笑うようなつまらぬ存在でしかないのですがそれでも、それだからこそ、なんとか少しでも人らしくありたい。君子の学びをしたいと願っているへっぽこ君子です。
だからわざわざ月一で先生をお呼びして易学の講義などもして頂いております。占いではなくても易にはそうした人の在り方が詰まっている。

必ずしも宗教とは関係なく、商いの道、教育の道、何の道でも社会の中であるべき道を見出すのが君子のありかた。
この「社会」というのが大事。君子は人の世を捨ててはあり得ない。

だから上座部の僧侶方は君子とはまた違う存在になる。社会から隔絶した個の悟りの道を行くので、
最近では「君子○○するなかれ」という話をしても「俺は君子じゃないから関係ない。」などという方が多いですが・・・これは人としてとても悲しい言葉だと思うのです。
端的に言えば自分にはポリシーがないと言っているのと同じだから。

さて「君子の交わりは水のごとし」といいます。
つまりさらさらとした付き合いをせよということ。ベッタリは駄目。
ベッタリは実は社会性の欠落にもつながる。
たとえば極端な話が犯罪組織や暴力団はその中の結束は強い。
反社会集団だからへたすると監獄行きだから仲間意識はがっちり強い。
だからミニニチュアの社会形成をしている。

そういう悪人でなくても小人数でいつもベタベタしてかばい合う。その中で利益を独占する。会社の上層部の中だけとかもそう。
うまい汁を吸うことを回し合う。
そうしているうち社会が見えなくなる。不正が横行する。
基準が善悪でなく、敵か味方しかなくなる。
たとえば犯罪行為をしているのを摘発すれば裏切り者です。
仲間だから。

若いころ、私なんか親しい人でもよろしくないことをした話を聞いて庇わず警察にひっぱっていったこともある。その人の友人からは「何で捕まったのか?」と聞かれて「私がつきだした。」というと驚き呆れられた。
警察でも驚いていたからそんなときはたいがいは仲間なら隠すことを考えるのだろうか。あるいは知らぬふりで関わらないようにするとか・・・
でも私は身内にたとえ殺人者が出てもおそらく「逃げろ」とは言わず絡めとってでも突き出します。恨まれても平気です。ホントはその方が親切だ。

冷酷非情に見えるけど社会に生きている以上そうしないとその人は社会から脱落してしまう。全ての不正はそうやってできている。


狭い池に住んでいればベタベタせざるをえない。
でもそれではよくない。
ベタベタは危険です。

私自身もなにか理由がないなら信者さんとも個人レベルでほとんど遊びにいったりはしません。
どこかに行こうと誘われてもいかないし、本尊様にではなく個人レベルでものを頻繁にプレゼント持ってくる人は要注意人物です。
喜ぶと思っているんでしょうが警戒レベルがアップするだけ。
依存の形成はしない。
仲良しはいてもいいが依存やなれ合いはやめたいね。
ホントの仲良しはベタベタはいりません。
どうせなら一期一会でも広い広い海にすむ魚になりましょう。
一人を慎み、楽しむのは大事です。