すごいこというね。
「法すらなお捨つるべし。いわんや非法をや。」という一文があります。
なにかというと仏教を振りかざして他の話ができない。こうなると法という筏に載って彼岸についても降りられない。
降りるのが怖いのかな。
これはわが師も味噌の味噌くさきは上味噌のあらずという表現でおなじこと教えてくれました。
これは人生でも同じ、何かコンプレックスがある。家の経済だの、生育環境だの、容姿だの、能力だの色々あるね。よくよく心の中を見渡すなら、大概なんにもそういうものはないという人はあまりいない。口で「俺は絶対ないよ!そんなの。」という人ほどあったりして・・・
それをバネにして跳ね返して生きることで前に進む。それはできるのだけど、中核に残るコンプレックスは捨てないといけない。そうでないとそいつが思わぬ悪さをします。
もう必要ないんですね。ココが難しい!
私は金剛経の大家の濱地天松老師には直に教えを受けては言いません。大正時代あたりを中心に活躍された方で年代が違うから無理ですね。
でもお弟子の林天朗先生からは濱地流の金剛経の教えを学びました。
濱地老師の言葉をかりれば「掃除をしたら箒をかたずけろ、そうでないとそいつがゴミになるから。」と教えられました。
実際の箒の問題でなくても、もういらないはずのツールをこころに残しておくと、それが今度は悪さする。
捨てる方法自体は簡単なんですね。「箒はもういらないよね。」「いりません。」でおしまい。
でもどれが残された箒なのかは自分でわが心を見極めるほかないね。
誰でも大概心に箒は置き忘れているもののようです・・・