金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

お経は誰にあげているの?


この間、理趣分のお伝えを何人かの信者さんにしました。
そのおり「お経をあげる理由って…何ですか?」という質問が出た。
これ、初歩的に思えるようですが、大変にいい質問であると思います。

よく言われるのが「お経は仏様の教え。それを仏さまに読み聞かせてどうするの?釈迦に説法とはこのことではないか?」というお話。
実際だからあげないでもいいという和尚さんや仏教家もいる。
そうですね。まあ、理屈だけなら一理あるように聞こえますが・・・。

でも、そもそもお経を読み聞かせているのは仏像ではない。仏画でもない。
あげている対象は本人自身なのです。ココが大間違い!

密教的に考えるとここは分かりやすい。
密教では仏の世界に入るのに心に仏をイメージして、印を結び、真言を唱える。身と心と言葉を総動員する。これは神経言語プログラミング(NLP)なんかでもいっしょ。
それも「ほとけ」につながるためです。
お経だってそうなんです。
読経のため理趣分読誦や大般若会では般若十六善神の曼荼羅かけますが、これに対して読み聞かそうというのはナンセンス。
仏画も仏像も密教で言う修行者の「観想」のためのツールです。
般若経の世界を心に思い、あたかも自分が説法の会上にいて聴聞するがごとく・・・そのためのものです。仏像だろうが御札だろうが一緒。そのためのツールにすぎない。仏そのものではない。
のものだと思うのは偶像崇拝・呪物崇拝の愚かな迷信です。もちろんそれなりに大事にされるべきではありますが・・・

無論、ただのイメージではなく曼荼羅は開眼してあります。それは護法の善神達や諸菩薩の加護を得るため・・・でも、その加護も本当は十六善神の御名前を呼ぶだけで道場に来てくれることになっています。
だから仏画の開眼ももう一つはそうした仏の世界をアリアリと感じるリアリズム。臨場感の強化です。
読経自体の役割は真言の念誦と同じこと。

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おうちでも仏壇とかお位牌にお経をあげるのはご先祖や故人にあげていると思いがちですが、まず自分が受け取る。それを回し向けるから「回向」といいます。

ご祈願でもいっしょ。実は回向の対象はお札や仏像じゃない。
回向文で最後に「願わくはこの功徳をもって普くいっさいに及ぼし、我らと衆生と仏道を成ぜんことを」といいますね。

これは仏にアクセスしたご自分の福分を皆に分けてあげるということ。
仏様にあげてるんじゃないね。そこ間違いやすい。

だから読経は学校の先生の前で教科書を朗読するのと同じです。先生に読み聞かせているんじゃない。自分や周囲です。
このため仏教ではいわゆる読経の事を専門用語には「誦」と言います。これは宗教行為。仏の世界に入る修行です。
「読」のほうは研究、勉強、机に向かって読んだりする学問としての内容を研究は「読」です。

昨日、遠方の信者さんから電話で「お経あげるとやはり違うんですね。なんかホント落ち着く。」と言ってこられた。
それはもちろんですね。読経はご修行でより仏の世界に近づく行為。
その分だけ「薫習」と言って身になじむからです。
そここそが読経の価値。
単に礼拝対象へのプレゼントとしてあげるのではない。

聖天さんにお経あげるのも同じ。聖天さんがお経欠乏症にならないため毎日あげるんじゃない。あなたが聖天さんから遠い存在にならないためにあげるんです。