金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

非情さは大事にしています


今日は断易の授業でした。
そこで事業占などはある程度非情さがないといけないかも…・という話が出た。
私たちの仕事は人物の見極めもするからダメな人はダメという見極めもする。

時には「泣いて馬謖を斬る」も大事。非常なようだが「鑑定」とはそういうことです。

占術を持ち出さなくても組織を守るためには駄目なものは駄目としないといけない。
それは企業でもいっしょ。
寺社や教室、
セミナーもそう。
なにかをなさんとする集まりならそこは皆同じ。
目的遂行や参加者の邪魔になる発言や行動の者は排除する。
そういう非常さは変な話だけどあるつもり。悪いけど・・・

私は書くことはそこそこきつくても見た目は怖くないらしい。
なかには誤解して私のことを「なんか、優しそう」と見てくみしやすしと考える人もいるけど、それ困ります。優しげに見えてもすべてそれは面の皮一枚の事。
そういう人は増長して消え去る。
いままで圧倒的に女性が多い。
女性が駄目な存在だのどうのこうのいうつもりはないが事実。投影は起こしやすいんだろうね。
逆に言えば女性は多分イメージの想像は豊かで上手なんだろうと思う。
私は拙寺に来る人は全て男女問わず信徒という枠でしか見ない。
女性だからという配慮も着替えの場所位でほかはしない。
昔こっぴどく言って辞めさせた人からお手紙が来て「私、先生に甘えていたんです・・・」という人もいた。
「だからなに?」
甘えられたりするのは迷惑の一語でしかない。

そういうルールから外れない限りは人は一番大事にします。盾になり味方もしましょう。
でもそこから外れれば赤の他人です。

離れればそれは知ったことではない。それが私の本当の心です。
信者は本尊様のお客様。だから大事にする。それだけ。

信者の扱いに好悪の差別はない。あってはならない。
だから、あえてそれをするときはその方を去らしめる時です。
ギリギリまで何とかしたいけど、無理だなとなったら一切手を付けない。
中途半端はしない。基本、メールや手紙も一切返事しない。

口先で「去っていった方のことも心配しています。」なんて言うのは簡単だけど、もう存在しないものは心から追い出さないと心配りにもキャパシティがあるからね。
私の場合はハッキリ言ってまったく心配もしないし、何とも思いません。

まあ、状況からはまるきり心配しない人ばかりではないけど・・・例えば家族が信仰がなくて変な嫁さんがでしゃばって無理に辞めさせたりするケースはそうでした。
まあ、それでも一応その人のした決断だから止めはいたしません。

同時に去っていった人を別に憎んだりもしない。
特別な気持ちはないのでそんな必要は全くないから。
目の前から消え、声も聞かねばもういないのと同じです。
去る者日々にうとしです。

心は孤高の龍の様でありたい、(実際は小さなトカゲのようなレヴェルの人間ですが・・・笑)だから、私の本当の心は岩に横たわるトカゲの心のようなものです。

冷たいですか?
でもこれ行者のメリハリとしてとても大事なことだと思っています。
行者に基本としてのひきずらない心の孤独は大事です。
それを守る厳しさも大事です。
私はお釈迦様の言葉
「犀のツノのように一人往け」はそのように解釈しています。
情けに引きずられていてはこれはちょっと無理でしょうからね。