まあ。意気込みはある。修行もどうしてもしたいらしい。
だが一番の問題点はそれだけの修行をしながら、それが少しも人格に反映しないことです。行が身に沿わない。
そこが本人はわからない。
この人は今までもずいぶんそれなりに行はした。険しい山にも何度も上り。寒いさなか、よその団体のお世話で山中のお堂に七日もこもっても修行した。そこは大したものです。
だが悪意なく言っていることにもじきに興奮激怒しては暴言を吐く。瞬間的な怒りがおさまらない。
そこは何年居ても少しもよくならない・・・・かえって酷くなる。
これでは、逆に修行すればするほど「私は修行にはまったく向かない人間です」と証明しているようなものです。今回も10万遍の念誦が終わって日も置かずそういうことに・・・これはこの人間に行はさせるなの不動明王からのサインと読んでいますから、いかに熱心でももう専門的な修行は拙寺では二度とさせない。
いわば仏勅ですので。兆しの中に仏意を見るのです。
だけど、そうではなく、この人はいまや私が暴言自体を怒っていて怒りがとければ戻されると信じているらしい。
今さらそんな見当違いの暴言に傷つきなどしませんよ。(笑)
私が感情論でものを言っている。それでさしとめされていると固く信じているんだね。
これも全く絶望的に駄目な考えです。悲しいね。
怒ってなどいない。ダメなものに怒るのはもはや無駄なことです。
例えばまだ、学校に来ている生徒なら教師は間違いを厳しく間違いを叱ることもある。
でも学校にはもう来るな。退学処分というのは即ちもう指導に値しないということです。
今さらそんな見限った者を怒ってなんになるのでしょう?
修行して人格や言動によきものが反映しない人間には修行させても無駄。
それこそ一休のいうように滝行、水行もそれだけで浄まるなら,亀や魚が一番修行ができているという話になる。
山修行だって熊や猪には人は到底及ばないことになる。
そんな山や滝の修行しなくって、真言念誦の難行なんかしなくても人格円満で、知性と理性が身に着く人には身に着く。
まずそういう人格円満という基礎人格ができていないと密教修行なんか到底無理。
「本当は悪意はなかったんです…」というレヴェルのことは対象外です。
勿論、祈祷行者には行だけすごくできるけど人格めちゃめちゃな人っていますね。祈祷も効いてそれなりに信者もいる。
そういう人もいるからいいのか?
とんでもない!
そんなものを養成するのは世に仇なす行為で天罰ものです。
かねては宗教的にも越三昧耶で三宝に対する重罪です。
私の師匠は極力自らの怒りを戒めた。
敵対する者にも調伏など決してしない人でした。常に「行者が怒ると人が死ぬこともあるから怒っちゃだめだ」といっていた。
行者が怒ればそれだけで、みさき神がとんでいって相手に危害を与える。
実際そういう実例を若いころから松山で沢山見てきた人でした
だから、怒りを暴走させる人をそのまま祈祷ができるように指導すれば悪魔を作り出すようなものです。乱暴者に剣術を教えるようなものです。
修行者と言えるか否かはあくまで口先三寸でなくその行動で判断されるべきなのです。