密教の阿闍梨が受けるべき「三昧耶戒」には時々には不思議な功徳をあらわにして帰依を堅固になさしめよはあるが、それは「仏法」への帰依。「仏」への帰依が不可欠で「帰依僧」とはいえ、仏と法と僧は別々に存在はしえない。
これも自分が超人的なすごい人なんだというアピール専らにして「依存」を形成するがは本義ではないでしょう。そういうことは方便。手立てとしてのみ許される。
教えが何も見えず、ただこの人についていかねばみたいのは仏教的には意味ない。いつまでたっても進歩がない。
無限の宝庫は外にあるのでなく、皆、衆生のうちに眠っている。
そこに目を向け導いていくのが指導者の本当の役割ではないでしょうか。
外には何もない。