金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

明暗をわける密教行法

しばらく准胝独部法を伝法してきたという阿闍梨さんが今回を境にして当分伝法はしないという。
密教がどんなものか、今までお授けした人の行く末やありさまを知れば、沢山お授けしてきた方ほど、一度は「もうやめておこうか」などと考え直したりもするものだと思うのです。
それが本当に三昧耶を理解し、密教を知っている阿闍梨さんということだと思う。
阿闍梨の守るべき三昧耶戒に不慳吝法というのがある。
法を惜しんで求める人に授けないことを戒めるのだが、誰にでも授けていいわけではない。
上座部の人などには同じ仏教徒でも授けないという。
別に上座部の人を侮蔑するわけではない。
信仰の立ち位置が全く違う人に授けても、本気で修することは少なく、ただの教養や手なぐさみにしかならないからでしょう。
「こんなのやるらしいから、アンタもいかない?面白そう。」程度でたやすく授かれば往々にしてそうなる。
それで「密教なんてちょっとやってみたけど駄目だわ」では、それは法を穢すことになる。

密教行法の恐ろしさはこれをやればやるほど、人生のお目付け役のようなものが働き出す。

だからやればやるだけ人によって明暗がおおきく分かれる。
密教修行をすると人生に閻魔法王庁の照魔鏡のようなものがついてくる。ここが密教の功徳でもあるのですが、同時にそうなると結果的に言えばやってはならない人もあるということです。

特に天部の行法はそう。身過ぎ世過ぎのためにそのようなものをやれば必ず人を傷つけ自らも悪業に染まり、末は必ず身を亡ぼす恐ろしい結果になります。

私が思いますには、おごらず、気おわず、謙虚を大切に、行法によって立ち、行法に学び、行法に己れをただすことができる人物のみが相応する法なのです。