金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

三千仏礼拝と懺悔 仏に身を任す


三千仏礼拝行は基本は懺悔ということに通じます。
しかしながら、人によっては懺悔というと何か辛気臭く思うようです。
自分が「何か悪いことをしている」と言われているように思うようです。

仏教で言う罪は社会や法律で言う罪にとどまらず己の仏性に反する行いを言います。
この故に飯縄様は「古き自己を捨つを懺悔となす」といわれます。

罪悪感にとどまっていては懺悔ではないのです。
実際罪を認識されていても、罪悪感の故にそこにとどまるのは一種の自己防衛です
もう罪人であることを重々認めていますので暴き立て、責めないでくださいと言う防衛です。
が、これは何も役には立ちません。
いつまでも罪びとでいることは真の懺悔ではないのです。
こういう懺悔は次のレベルには永遠に進めない。
何故ならこのレベルでは罪びとで居続けることこそが大事だからです。
悪い人をやめてはいけないのです。

懺悔とは悪しき自己と決別し新たに善なる自己となるべく、ひたすら精進することです。
礼拝行も罪人だと卑屈になることが大事なのではないのです。
五体投地の礼拝は申し訳ないと謝り続けることではなく、己のほしいままにしてきた五体をなげうって仏に身を任す動作なのです。
私はそう解釈しております。
 
   衆罪如霜露
   慧日能消除
   是故応至心
   懺悔六情根