これは仏教的には回向といいます。
ですから皆さんは既に一切衆生に毎回、回向をしている。つまりお勤めの功徳を皆で分かち合ってシェアしているということになっています。
ここで大事なことは回向文の精神は平等で、特定のだれかではない点です。
どこにどう功徳が回るかは御仏任せです。
この差別なきレベルの祈りは大行者だろうと小学生の祈りだろうと何も変わりません。祈る側も祈られる側も平等相の中にいますから。
そこにはあの人は祈るけどこいつは嫌だなどというのはないのです。
赤十字や医療慈善団体に皆さんが寄付しても、あの可愛い子供の病人は可哀そうだからこの御金使ってください。この病人のおばあさんは顔が憎たらしいのでキライだから私の御金はつかわないでくださいです…・では寄付になりませんね。
これをもって、ただ人のために祈ることは功徳が大きいと思い、頼まれずして自ら誰か知っている他人のために祈願する。自分が出来ない場合は諸社寺にはせ参じ代わりに祈るということをすれば功徳が大きいと思い込む人もいます。
しかし、これは難しいことです。功徳を積むというのは第一に恩に着せては功徳にならぬ。
さりとて黙って行うのみなら、いつまでも当人に信仰は芽生えない。そういうジレンマがあります。
自分のことは自分でするのが基本だということを忘れてはなりません。
私が修行時代、不動尊華水供という修行を課せられました。加行後の初めての祈祷伝授でした。
その修行中に「心配な人がいて今日はその人のために祈りました」と師匠に話すと・・・今のアンタの祈りで本当に効験があると思うならば、そもそも専門的な祈願の修行など無用であろう。そんな素人考えでいるなら、今すぐに修行などやめたらいいと言われたことを思い出します。
言い換えれば、それはただの自己満足の祈りだと言われたようなものです。こういう時少しの手心も斟酌もないのがわが師であり、それでこそのわが師なのです。
回向には平等の回向と個別の回向があります。
平等の回向はそのまま功徳です。
これに対して個別の回向は差別相の中での祈り、個人のしがらみの祈りですから業も受けます。
いわば、自分の福分功徳を削り分かち与える祈りなのです
本当に何とかしたいなら祈りの道もまた決して甘いものではありません。