ここ数年、講師をお呼びして哲学としての易を学ばせていただいています。義理易です。
易では人よ。すべからく君子たれという。君子とは志ある人。
それがない人を小人という。
財・色・食・名・睡(物欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲)の五欲さえ満足させればもう求めるべきもないと言うものは即ち易経で言うところの小人である。
うらないとしての周易はなかなか当たらない。むつかしい。読めないという。占術では第一級だろう。逆を申せば断易はともかく周易なんかは実際、占いでは役にはたたないとさえいう人もいます。古来易聖と言われる達人もましませば、それはどこまでも人の機根によるというものと思いますが、悲しいかな少なくともわたしのような下根劣恵には無理ですね。
それは当然だと私は思うのです。周易は君子の学問。志なき者に感応はないと思いますから。その意味では私にとっても至って難しい存在ですね。
はじめはなんだろう。なんかどことなく右翼っぽいなあ…なんて思ったそうですが・・・
まあ私は右翼だからそういうのは何も気にしませんが。(笑)
でも、どうも何となく気になって買ったそうです。
しかしながら志って一体なんなのだろうと思って解説みて愕然とした!
志とは「命より大事なもの」だと書いてあったんですね。
命より大事なものって・・・?
そういうのに批判的な人はすぐに滅私奉公とかお国のためだとかそういうのじゃないの?と思うだろうけど・・・そうじゃないんですね。私が思うには。
「昔の偉人の話なんか聞くと命捨てることもいとわず理想にまい進した。それを尋常ならざる勇気ある人、自分たちとは全く違う人間のように思うけど・・・そうではないだろう。
死が怖くない人はいない。だが。彼らは死よりも自分の信じる志を折ることがより怖かったのだ」と。
志があるがために死の恐れさえ超えられるならむしろ志あることは人として僥倖の限りというべきでしょう。
私たちもできることならそれを持ちたいものですね。
誰よりも自らのためにそれはきっと幸せなことに違いないから。
この話を聞いてそう思いました。