金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

負けたことのあるやつは強い


30代後半からは、武術の師であるN先生のところには専ら御機嫌伺いと手わざの施術をして頂きにうかがっていました。もう武術はやめたというより、だんだん減って残った方々の水準が桁違いで私のレヴェルではまるきり着いていけませんでした。
腹を棒術の棒でガンガンついても大丈夫というようなレベルの人の集まりに成ってしまった。
凄いのは先生は50にも60にもなって、それでも武術探求をやめなかったことです。

「先生は凄いですね 。どこまでもやるんですから・・・」というと
「武術なんかは実際は気の小さい奴がやるもんだと思うよ。人と喧嘩したり、なんかあっても絶対負けたくない。そんなことめったないのに・・・そんなこと普段から思っている奴がやるんだ。俺は気がちいさいからな。」
と笑って言われていた。
N先生の道場では「精神修養に武術をしたい」というような話はトンと聞かなかった。
「負けたくない」人だけが通う道場でした。
私自身も
「羽田君は精神修養でしてるのよね?」というような他人様には「いいえ、違います。人になぐられたり、襲われて失敗しないためです。あるいは修羅場を潜り抜けるような、あくまで護身のためでほかの意味は一切ないです。」
と言いきって呆れられたりした。
でも私はむしろそういう動機に嘘偽りないという誇りがあった。
同時に考えてみれば先生の言うように、極めて気が小さく、弱い、臆病な自分の自覚がそこにありました。(いまでも基本はそうです)

全体に武術でも、茶でも花でもそれ自体やっているだけでは精神修養などなるもんか。
それを修養にしたいという心があってこその修養です。
逆に修養にしたいなら植物を育て犬や猫を飼うのだって修養になる。飯を作り、掃除する日常でもなるよね。
お茶やお花の師範だって、欲深で人を好き嫌いで分け隔てし、あるいは恥すらかかせて喜ぶイケスカナイ意地悪ババアもいっぱいいるじゃないか。
武術だってスジは良くてもくだらない人物はひしめいている。
もちろんそうでない立派な人も、茶も花も武術もどの道にもいる。
だからなんであれ精神修養とは関係ないね。
宗教ですら修養とは程遠い人はごまんといる。

そんな茶飲み話の中・現代の代表的な武術家と大東流柔術創始者武田惣角が試合したらどっちが強いだろうなどというくだらないことを言うと・・・

「そいつはわからないが…でも惣角の方が強いかもね。」

「片方はいまのところ無敗といわれていますが・・・」

「・・・だからだ。武田惣角は負けているからな。・・・あれだけの人間でいて負けたことのある奴はな、強いぞ。」

「!?」

N先生に言わすと、人間ぼろ負けに負けても立ち上がる奴は強いという。先生ご自身の人生も決して平坦ではなかったと言います。
だから、困っている人には同情的でした。

お金を用立てたり、人生相談にも乗っていた。

「負けても起き上がる人」
確かにそこには無限の学びがあります。

たとえば多額の借金を返した人には例外なくそういう学びがある。
勿論、失敗が先にあるのだけど、失敗しておきあがったものだけが得られるものもある。それは今まで多くの人と接していてたしかに思います。
苦境に立ち、「愚かな奴」と人に罵られ、孤独の中、人に沢山の迷惑もかけながらなんとか這い上がる。セミの幼虫のように地面からはいでてじりじりと登る。
そういう悲しみや苦しみのなかでしかできない学びもある。


でも悲しいことに・・・そんな中で甘えて一向起き上がらなかったり、先生の同情を買って得をしようという人もいたようです。
そんな人たちとのやり取りが多い中先生は自然、自然と人キライになり、猜疑心から孤独の道を歩み始めたのでした。
残念なことです。