金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ヴィジョンがないといけません


昨日のお客様は占いをしていたけどなんか疑問でやめてしまったという話。
結構成功していたにもかかわらず嫌になってやめたという。
今は全然別な仕事しているそうです。
何故疑問に持ったのかはお話を聞いていてこの方のお気持ちはよくわかります。

結局占いで吉だとか凶だとか言っても本当の意味の価値観がそこにないと実際にはよい人生を創造する手伝いすらできないからです。

ただの身過ぎ世過ぎの口先三寸になる。
浅ましいことです。占い師ではなく売卜者。

時々、食い詰めてきてどうにもならないので占い習いたいという相談もある。
「私、スキルなんてないし・・・占いでも習おうと思うんです。」
「それはなぜですか?」
「占い師でもやって食べていこうかなと思うんですけど、どうでしょう?」
「占い師でも、・・・ですか?
じゃあ、なぜ医者にでもなってとか、会計士にでもなってとか、弁護士にでもなって・・・といわないの?資格がいるから?
勿論そうですよね。でも占い師にも目には見えない資格が必要ですよ。」
「目に見えない資格ですか?}
「・・・思うにあなたには占い師は無理です。」
「どうしてでしょうか?}
「占いを嘗めてるからです。」
「!?」
「人生失敗して困窮している人間がどうして、そのまま人さまの人生指南できるんでしょうか?}

結局、最終的に人はどうすれば満足な人生を送れるだろうというヴィジョンのないままに、人さまの占いをしても良きものは提供できないと思う。
それなら、まず自分がその占いで人生切り開いてみなさいと言いたい。

私は当初は人のことなんか見る気はサラサラなかった。
自分の人生のために信仰でも、占いでも、心理学でもなんでもしてきた。
自分の為だけです。ひとなどどうでもいい。

でもそれでいいと思う。そうじゃなきゃウソだと思う。宗教でさえね。
「人の為と書いて偽りと読む」はよくいったものです。
こがまずクリアできないとダメ。

そうでないとヴィジョンが提供できない。しまいにどうなるのが望ましいのか?
それです。ただの吉だの凶だけじゃない。

たとえば恋愛を鑑定して、「私、不倫してるんです。彼にお金も貢いでいるんです。占いで凶なら私たちの仲ってもうおしまいなんですか?}
「いいえ私の言う凶というのはそれじゃない。より泥沼化して、どうにもならなくなることが凶です。別れられれば吉というべきです。」
吉とか凶というのはその人の望みじゃない。
いうなれば天の告げる吉凶です。
愚かな間違った望みなど叶う方が凶です。
何をどう考えるべきかまで言ってこそ「師」なのです。
間違いは間違いだとはっきりいえること。泥沼にはまったままにしておくのに吉も凶もない。それ自体凶です。
ヴィジョンのない指導をして人をどこに連れて行くんですか?
本当の占い師になるには学歴はいらなくても、そういう見識は不可欠だと思うのです。