勿論、仏陀になることではない。
悟るわけでもないでしょう。
それはどうしてかはちょっと考えれば簡単にわかる。
例えば亡くなった人の成仏のためにお経を読む。
でも死んでからお経を聞いただけで悟れるなら生きているうちの修行はいらないことになる。
そもそも死んで機根があがるなら生きてる側から供養も必要あるまい。
ではお経を読んだり供養することで亡くなった方はどうなるのだろうか?
私はそれは「認めること」だと思います。
死んだ方を認める。
存在を認めてあげる。
例えば亡くなってもお葬式もしない。
直葬という奴。実際は葬儀ではない。火葬場へ「直送」です。
実質は廃棄物と変わらない。
これは認められていない在り方。認めない在り方。
皆さんの意識に上らない。
なんかの折に「実はもう死んだらしいよ」というだけ・・・・
「へえ、そうなの。」でおしまい。
こういうのは死者が埋もれたまま。つまり「浮かばれない。」
浮かばれないということは生きてる側も亡くなった側も繋がれず孤独ということ。忘れ去られている存在。
これでは命の流れが止まる。
命はDNAだけでつながるんじゃない。霊的にも繋げないとダメ。
霊的につながるということは死者を認めて送るということです。
だから活きている子孫がいるのに直葬とか墓じまいなんて愚かの極みだね。
墓は自分の為だけにあるわけじゃない。
霊的につながるためにある。
仏教以外の宗教で葬式したら浮かばれないわけではない。
死者が納得できればいい。
よしんば不幸にして万一、無宗教で葬式したとしてもしないよりはずっといい。
世間一般のお方がお墓参りしたって概ね手を合わせて念じるだけでしょ。お経もなにもよまないけどそれでもいいんです。なにもしないよりはずっといい。手を合わせ死者を念じることが大事です。
お葬式も集まって死者を認め気持ちを個人に送ること。
どんな形であれ繋がれればまだしもです。
死者は廃棄物と一緒でただのものだという唯物論の観念。
これはいけない。
故人を人として認めない。
ただの有機物では繋がれない。
だから、たとえば祈祷の道で幽霊が出るとかいう場所なら、基本は認める作業をするんです。
ああ、あんたそこにいたの!そこにいたんだねえ。淋しかったねえ。
と言って認める。存在を浮かばせる。
死んだとき認めてもらっていないと何百年たっても、淋しくて悲しくてそれを求めるのが普通の凡夫。
そんなのいらないとサッサと旅立てれば達人です。
もう誰もその人を知らないんだから永遠に認められない。浮かばれない。そこを認めてあげるのが供養です。
だから無縁の霊を認め供養するのが僧侶の務め。
先祖の供養は中心は子孫の務めです。
不成仏の霊は九字切って追い払うとかじゃない。
そんな酷い!(九字は場合によって切りますがそういう使いかたしません)
「場所の波動をエネルギー送って清めます」とか、わけわかんない、くだらないこと言ってんじゃない。
自分の脳みそでも浄めなさい。
大いに認めるということ。人間同士でしょう。
認めていることを向こうが認めればお化けは出ない。