つまりこの場合は修験道独特の意味つけを前提としてものをとらえていく。
たとえば「人には皆仏性がある」という考えがあるとすると、これを常にそういうものとして心に置く。
どうして?や何故?はそこにはない。
まずそういうものとしてとらえる。
それが真の理解につながっていくという。
修験道の場合はそれが修験装束やアイテムの一々にある。
これはとても大事な考えですね。
それが薫習となってついに大きな変化をもたらしていく。
はじめから我意を立ててあれこれ言うのが好きな人は到底至らぬ「信」の世界がそこにはある。
「大智の舎利弗なお、信をもって能入となす。」