金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

修羅を生きる

昨日、夕方の予定がキャンセルになって暇ができ、有楽町で前から見たかった三上康夫監督の映画「武蔵」をみました。

ほとんどが吉川英治版なのにこちらは史実を考証した上の作品だそうです。
作品に友達の本位田又八もその母のおすぎ婆、ストーカー?のおつうさんも出てきません。
佐々木小次郎も前髪の若者でなく50代。


おつうさんのかわりにやたらおっかない武蔵のお姉さん「吟」が出てくる。
「あんたのやってることは人殺しだ!そんなこと辞めて帰りなさい。」と武蔵の兵法修行を厳しく批判!故郷へ帰そうとおっかけてくる。
「剣は人殺しの道具だ。そんなものに神仏や魂が宿るわけない。」という言葉も峻烈!
しかし武蔵の兵法者としての名があがると船島迄おしよせて「あんた、絶対勝つのよ!」と激励して帰る。
勿論身内が切られるのは嫌なのは当然だろうが、「そんな試合はやめろ」「逃げて帰ってこい」とか言わない。
身内はある意味修羅を共有することになる。

身内に兵法者がいてももちろんそうでしょう。
切られた側の身内から見れば人殺しの身内になるのです。
この武蔵の姉は多分途中から武蔵の身内として同じく「修羅を歩む覚悟」になったと思われます。
思うに弟を追う旅の中で彼女は悟ったのでしょう。
彼女はどこへ行こうと、どう思おうと世間にむかっては今や「兵法者宮本武蔵」の姉なのです。


人は好むと好まざるとによらず、皆独特の修羅を歩むものかもしれません。
分かりやすい例ならたとえばヤクザの家に生まれたり、身内に犯罪者がいたりすれば少なからず修羅の道に関わることになるでしょう。
本人がいくら関係ないと言っても世間がそうする。そうさせる。
そのカテゴリーに入れてしまう。
入れらえた方は出られないから、もうそうやって生きていく。
それ以外道はない。
反社会的なものでなくても官僚には官僚の修羅、商売には商売の修羅、医療業界には医療業界の、僧侶には僧侶の修羅があると思います。
そして、その家族は、身内は少なからずその修羅に関わることになるのです。

皆どこかで修羅を生きている。
武蔵自身も自らの修羅に深く悩み、参禅に答えを求めるががそんな彼になげかける禅僧太木慧道の言葉は小気味いい。(それは映画でご覧ください)

なお、この映画は津軽三味線?のほかにBGMがほとんどないんです。
余計な盛り上げ的BGMにないのが純粋に自分の心で作品をみられて嬉しい。これただBGMが少ないのではなく、もはや意図された一種の音楽効果です。
私的には何度みてもいい部類の作品だと思います。
最近の時代劇映画は実は恋愛映画だったりして、あえて時代劇である必要性がないものが多いですね。
斬る、斬られるという時代を背景としたギリギリの中の命題があってこそと思いますが・・・
この作品を作られた三上監督に深く感謝したい。