金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

商売繁盛をゴジラに祈りますか?


話題の新作ハリウッド・ゴジラ映画「ゴジラ・キングオブモンスターズ」は怪獣とは「いにしえの神」なのだという設定。

映画の中で、怪獣を龍を例えに古代の神々であると説明する中国人科学者、そこでアメリカの科学者に「では、その神々である龍はどうやって退治するのか?」と聞かれた彼女は「その考えは西洋的にすぎます。東洋では龍は退治するものではないのです。」と答えます。

故にモンスターではなくタイタン(巨神)と映画の中でも呼ばれる怪獣たち。
彼らはある意味大事な存在なのだというこの設定は実に穿っていると思います。

本来神とは何であったかが垣間見られる。

我が国の神道においても、神々は猛き荒ぶるものにて、本来斎き鎮める存在。
同時に自然の豊かな恵みの象徴でもある。
海や山のように我々にとってなくてはならないが同時に恐ろしくもある存在。
故に神居ますところは本来は慎み感謝の場である。

もしも神に物申さばそれこそ祝詞に言うように「おそれみ・かしこみまおす」でなくてはなりません。
祈願するなら「愚かなるはなおも恵み先はさきはえ給え」の心です。
神々の怒りは「お前たちは間違っている」という重要なメッセージであり反
故に「大直しに見直し聞き直して」もらわなくてはならないのは我々です。


それが人間はいつの間にか、自然の恵みを忘れてしまい、感謝するどころか、どんどん傲慢になって神々を自分たちの希望を押し付け、利益のために働かせようとしだした。
その歴史は今に至るまで続いているといっていいでしょう。
神社は本来、そうしたこまごまとした願いの場ではない。
祈りとは息を宣る・生きているこの確認。
祭とは神と人を真釣り合わすこと・神に正しく向き合うこと。
それをすべき場です。
それを忘れてひたすら神々に欲願を押し付ける。
祈願するならそれがないといけない。
畏敬の消失。

私には今の神社、仏閣にお参りする多くの人たちより昔の映画「モスラ」で見た南洋の島で守り神である巨大な蛾「モスラ」をひれ伏して拝む島民の方がより神の何たるかを知っている人たちに思える。
自然の象徴としての動物神。
たとえば習合思想では神祇は皆蛇体を持つという。
実際、そういうタイプの信仰は昔は世界各地にあっただろう。
彼らの祈りはひたすら島や地域が天変地異などにみまわれず「たいらけく・やすらけく」あって欲しいだけです。

現代の我々は自然災害などに逢えば、日ごろ信じてもいない神や天を想定して呪い、それ以前の平穏はあって当たり前であり、自然の穏やかであることに感謝はしない。

反面、我々が今、神に向かってやってること。
特に昨今のご利益本位の神社ブーム・龍神ブームなんかを見るとそれは「ゴジラ」だの「ラドン」だのにお賽銭上げてひたすらお金儲けだの、良縁だの欲願をメッチャおしつける行為と大して変わらないと思うのですが・・・(笑)

神は畏れるもの。この一面を忘れてはならないと思います。