金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

お施餓鬼にみる陀羅尼とお経の違い

今日は少し専門的なお話させて頂きます。

お施餓鬼は不空訳の『救抜焔口陀羅尼経』をテキストとしていますが、これによると、餓鬼たちを呼んでお食事を加持し食べさせて、そののち五如来の名と真言を唱え、発菩提心、三昧耶戒真言を授け、大宝楼閣善住秘密真言陀羅尼発遣、光明真言、発遣となっていてお経は読まないでおわっている。
元はこれは何かの間違いだと思い、次の読経が終わって発遣(解散)していましたが、最近になってそれの方が間違いで如法にすべきと思うようになった。
何故なら地獄・餓鬼・畜生などの三悪道衆生は多くの場合、経典を理解しえないからです。だから施餓鬼作法が終われば解散でいいんです。
一番ましな境涯の畜生(動物)でさえできない。
そもそもよく読まれるいくつかのお経には宿福薄きものは聞くことを得ずとさえいう。
宿福というのは輪廻しながら作り得た福徳の業です。
動物でも天部まで上がってきた竜王迦楼羅、荼枳尼などは内証は我々をはるかに超えているので違いますが、施餓鬼に来るようなのはもっと下の動物霊の連中です。

まして地獄、餓鬼の衆生はなおさらそんな余裕はない。それで理解しないでも功徳となる真言がすばらしさというか優位性なのです。
じゃあその後のお経は何で唱えるの?
実は是は対象が違う。これは塔婆があがっている各家の諸霊の為です。

つまり施餓鬼は二重構造なんです。施餓鬼でお経で回向される諸霊と直に食を与えられ、陀羅尼の功徳を浴びる餓鬼は違う存在。
各家の諸霊は経典を理解する境涯だから「教え」を伝えて教化する意味がおおいにあるのでお経なのです。
「陀羅尼」は功徳はあって理解の及ぶものではないので加持されるのみで教化まではされない。そこは全く経典に及ばない。
キリストの言われた「人はパンのみにて生きるのにあらず、神のみ言葉にて生きるもの」という言葉を借りるなら、パンがお施餓鬼、神のみ言葉に相当するのがお経です。それぞれに役割が違うんです。
どっちが上とかじゃなく。

勿論、漢文お経を霊が聞いてわかるのでしょうか?という問題はある。
だからこそ、そこは僧侶が経典を理解していないと諸霊の心識に伝えられない。
心で感応する。だから少なくとも内容をザックリとでも坊さんが理解してないと無意味。

不勉強でお経に何が語られているのか、ちんぷんかんぷんの僧侶なら陀羅尼だけ読んでいる方がマシだと思う。
これいうと読誦大乗で「読むだけでも功徳がある」とか、言い訳する坊主いるけどたしかにそうであったにしても、読誦大乗の部分だけを言うなら、あげる人はシロウトだろうと高僧だろうと同じでしょ。
お前いらんわ。

前に念仏系の御宗派でペット供養は可か不可というシンポジウムがあったように聞いている。どういう議論がされたか興味深いけど私的に言えば陀羅尼を併用しないなら、念仏のみで人天以外の供養は無理だと思う。
念仏はご本人が唱えるのが本義。ワンニャンは無理です。
(ゆえに私の場合、鳥獣魚虫は真言読誦中心で供養します)

日蓮宗さんのお施餓鬼は因みにそこはあえて『救抜焔口陀羅尼経』の陀羅尼をテキストとして併用いるようですね。お次第見る限りではそうでした。
見て意外でしたが・・・だとすればそこはさすがに分かっいてらっしゃるのだと思って感心しました。