金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

閻魔の裁き2


閻魔様の持つ人頭杖。男女の顔がついている。男は悪を見通し、女は善を見通すという。

父性は間違いを正し、母性は善をはぐくむ。
つまりこれも自分の中の作用かもしれません。

浄玻璃の鏡もそう。ありのままの自分の姿を見ようとする心の働き。
だから閻魔の裁きは自分がしているんですね。 
だけど、だとするならこれは一面末那識の作用でもある。

どこまでも善悪二元論に深く陥って生命の仏性を見ない。
それが地獄。自己処罰、自己否定の世界。
肯定できない限りずっとそこにいる。
自殺して結果地獄に行くんじゃない。自殺ということ自体が地獄なんですね。生きてても、死んでても。

だからそこをあえて見すえることがすなわち「破地獄」となる。
破地獄とはすなわち自己のうちに仏の光明を見ること。

「破地獄光明真言」などは大日如来の光だというのですがこれは自己の仏性の光である。
さらに積極的に迷妄を打ち砕くとするなら不動明王の光炎といってもいい。でもこれは自己の迷いを焼く、自らの「浄菩提心」そのものの働きと言ってもいい。

「浄菩提心」は自己の本俱の仏性(もともとある仏としての自分)を見ようとすること。「菩提心」というと悟りを求める心なんて仏教辞典に書いてあるけど浄菩提心というのはもとよりそれがあるという意味。だから上座部にはない言葉。

菩提心を持てば破地獄になる。境涯はあがる。でも環境は同じかもしれない。カルマはカルマですから。
人殺して牢屋に入って懲役。その間大いに人間性をやしない立派な人格になっても懲役は懲役。

ただ受け取るこころが違う。自分の業を理解し受け止めることができるからです。
詮じ詰めれば全部自分の業です。そう思って受けとめることが第一歩。
そう思えば環境に対する捉え方は一変する。
「衆罪如霜露 慧日能消除」となる。

しかしながら、そうなると罪悪感だけを掻き立てる従来型の恐ろしい閻魔様と罰の待ち受けるだけの地獄の話はあまり感心しないですね。