そこの家に連なる方にむかしの首切り役人がいたそうです。
罪人の首を討つ。これは正規の役職ではなく余技として腕の立つ同心などが請け負ったそうですが・・・嫌な役なのでやろうという人に定着化しやすいとはいえる。
罪人とはいえ、人の首を討つことはどんな人間でも心に傷を負います。
でもまだ切り足りない。
罪悪感の一片もない様子ですが実はこれは罪悪感の裏返し。
つまり、人の首を切って何も感じないよりもそれを喜びにするという真反対の動機付けをしているわけですね。
「人を切るのは好き!」という風に設定している。あるいは人の首を斬るたびに何らかの復讐の疑似体験を果たしているんですね。
そういう正当性を設定している。
そうでないと人の首が切れない。
普通の心ではやはり敵でも罪人でも人の首を撃つのはつらいでしょう。
だから戦場では敵将の首も「御免!」と言ってとる。
変な話ですがこれは大事だったのだと思います。
合戦などでは命のやり取りながら、「武士の情け」という言葉があるのはその中で人間性を失わないための一種の手立てだと思うのです。
昔テレビでやっていた「子連れ狼」の主人公・拝一刀は大名などの死刑執行人という設定。
後にお話の中では子連れの「刺客」としていきていきますが、その歌に「涙、隠して人を切る~ ♬」というのがあった。
どういう悪人にても首を討つ。こういう羽目にまでなるのは、同じ人間として憐れというのがどこかしらにあるのが当然の心情ですから、
そうでないと人ではいられない。
殺すという最大の悪を見据える心がない人は武人でもないし、真の軍人でもない。
それを悪として見据えないとベトナム帰還兵で殺人が止まらない人なんて言うのも出てくる。
正面から自分が行った悪が見据えられない。
殺しが悪だと思うととても自信をもって生きられない。
幸福になってはいけない。そう思うんでしょう。ま、無理もないですが。
だから殺すという行為を行ってなおも人間でいるためには少なくとも本人に「義」という観念が必要だったわけです。
国を守る.民を守る。自分を守る。
そういう「必要悪」の理由がいる。
「義」があったにせよ、だが同時に厳然として自分自身のなかで「悪」だという認識がいる。「義」とは一種のジャッジなんですね。結果どうすべきかという。
だから釈尊は
「悪事を悪いと知ってすることとそう知らないですることでは後者の方がよろしくない」と言われたんですね。
数々の自らの悪を見据えながら生きたいものです。
それがないのが仏道で最もよくないとする煩悩「痴」になる。