昨日は体のケアで整体に。
電車の中で准胝さまの御念誦を口の中でしていたら浄瓶のイメージがでて来る。
浄瓶は准胝様の三昧耶形(働きを著した象徴)
そこからコポコポお水が出て業が浄まる感じ。
「ああ、いいなあ…」とそんな風に浸っていたら
「おい、お前を浄めるその水は一体何だと思う?」という霊狐さんの声なき声。
何だそばにいたの?
「洒水の水、浄瓶の水といい。それは心だ。お前の心だ。
業を浄めるものはそれだけだ。」
「汚れた心も心で浄めるのですか?」
「そうだ。業とは心だ。他にない。ものではない。心識のない存在には業はない。ものに業はない。
だから穢れた業というのは穢れた心だ。穢れた心は心できよめるほかはない。ほかには方法はない。」
「真言やお経は?浄める力はそこから来るのではないのですか?」
「真言やお経はいわばこの場合は掃除の道具だ。真言や経典の本だけ置いてあって心が浄まるか?それを読まんとする心があって初めて意味を持つ。
心を抜きにしても陀羅尼や経文それ自体が浄めると思うのはあやまった考えでまことの教えではないぞ。」
さらに霊狐さんは言う。
・・・
「お前は今、光明真言のことを思っただろう。施餓鬼の最後にいつも唱えるあの萬の罪を滅ぼすという大日如来の最も有難いという真言だな。
あれもそれを唱えんとする己の心があってこそだ。
だから施餓鬼というものも実は己の心を浄めると思うのが肝要なのだ。
憐れな餓鬼を救うてやるのだというようなものでないぞ。
そうでなければ何故、他人であるお前が「五如来」の観想を凝らすだけで餓鬼は得脱できるのだ。
餓鬼は他に非ず。
己だ。己が餓鬼だ。そう思え。
相談に来るもの、祈祷を乞うもの、全て他人に非ず
他人であってもかつお前自身であると思って向かうのだ。」
お前の常に唱えているではないか
「諸々の法は影の形に随うがごとく潔く潔ければ仮にも穢れることはない」とな。