お祀りが終わって外観てみると塔婆は倒れていても誰も直さない。水玉はいくつも上げて下げない。
もう機械的にしているだけなのが見て取れる。昔、織田信長が小姓を選んだ時、わざと長押の上に箱を不安定に引っかけておいた。
順々に候補者を呼んでみたが誰も気を留めない。
森蘭丸だけが長押の荷物を危ないからといって下へ下したという。
それで信長公は蘭丸を小姓に置くことにしたそうです。
ある会社の試験で答案用に供する白紙を裏を上にしておいた。
おもてに返したものだけが一次試験を通過した。
拝んだり、習い事するのが仏道修行と思う人は多い。
それは他の道でもそうだろうと思います。
だが仏道の主眼は人間である。術や知識ではない。
常識がない。口の利き方も知らない。礼儀がないは論外。
気づかいがない。今やっていることがそのまま修行だとわからない。
そう思うものは器のものではないとしか言えません。
最期にものをいうのは人物の何たるかだけ。
とりわけ密教ともなると師匠はどんどんそこから人を淘汰しないとならない。
見切りをしていく。法を盛るに値しない器は徐々にはずしていく。
教えること以上にそちらをしていかないといけない。
そうせざるをえません。
ニセものの行者ができないよう。
それが師匠と教師の違い。教師は全員いに平均してまんべんなく平等に教えていくの大事。
でもその相手は生徒です。弟子じゃない。
生徒は全員が理解しないといけないレベルです。
師匠は伝えるべき相手を選んで伝えていく差別の世界。
逆に言うならつたえていけないものは外していくのも師匠の仕事。
平等なんて関係ない。
一生懸命なのは当たり前。
一生懸命だから認めようなどというものではないのです。