今日は信徒さん接待で歌舞伎に行きました。信徒さんと言っても教会も持っている方ですが。
昔から支えてくれて来た人ですのでたまには報恩謝徳です。
その中の出し物。「勧進帳」
義経一行をニセの山伏と疑う関所の役人、富樫左衛門と弁慶のやり取り。
ここでは伊矢野先生に習った三十三通記の衣帯分に出てくるような修験装束や持ち物の説明がされていく。弁慶はそうした説明によってニセモノではないと証明しようとする。
伊矢野先生の話の凄い点は、たとえば錫杖の輪の数は何を表すとか、貝の緒の長さが金剛界36尊を表す三十六尺であるとかの説明をしながら「それは意味付けではない!」という。
そう!この手の意味付けとして考えるなら、それは仏教には山ほどある。線香三本上げるのは仏、法、僧だとは言う話。仏、連、金の三部でも、三世の諸仏でもなんでもござれだ。
私は若いころ、こういう話を下らないと思っていました。
修験問答なんかそういう部分は憶える気もしない。当時はただの茶番劇の類にしか思ってなかった。
だって線香三本じゃなく、二本だって仏と衆生とか。金胎両部とか色々言い訳めいた話はいくらでもできる。
正直に言えば今も昔にもましてクダラナイと思っています。
だから伊矢野先生が言うように「意味付け」なんかじゃ全く意味ないんですね。
そもそもこういうものは意味付けされたのではなく修行の過程で意味をみいだされたもの。
これはこういうことにしょうとかではなく、修行者が修行の過程でそこに符合を見出し、内的な宗教に入っていく作業の結果であり。決して用意されたツールとしての意味ではないということ。
そこが大事です。
それだけですべての価値が180度変わる。
そうでないと全てが超クッダラナイこじつけだよね。どうでもいいや。