十一面観音には頭の真後ろに「暴悪大笑面」というのがあります。
舌をむいて悪笑いする顔。
これは悪行や戯論(理屈に終始する議論のための議論)の愚かさをあざ笑う顔といいますが、…。
しかしこれが頭の後ろに隠れているのが微妙に意味深い。私はこれは人間の本性を表しているのかもしれないなと思います。
本面は寂静相の菩薩面。静かな美しい顔の裏に悪態つく醜い顔。悪魔の顔。
ちょうど豹変する映画「エクソシスト」に出てくる悪魔の憑いた少女みたい。
でもそれが人間というものかもしれない。
善なる顔の裏にどこかに悪を潜ませ、逆に悪の顔の裏にも悪になりきれぬ人間らしい情ややさしさはどこかにある。
恐ろしいまでの密教の人間観察眼。
白洲雅子さんが「およそ。密教の思想ほど恐ろしいものはない。」と「十一面観音巡礼」という美しい紀行文学の中でつづっているのが実にうなずける。
でもこの顔あればこそ、はじめて我らの修羅闘諍を伏し、暴悪で貪欲なる毘那夜伽王を鎮めて歓喜天となせるのだと思います。
並大抵の説教ではそうはいくまい。それだけ我らの業は深い。
なればこそ同じ悪魔の顔の説法もあってしかるべきかもしれません。
聖なる悪魔の顔。それを潜ませる観音。
げにおそろしきは十一面観音というこの仏。
ある意味明王などとは別な意味で恐ろしさを感じます。
歓喜天の御本地佛としての十一面観音菩薩ならこの暴悪大笑顔がはっきりなくてはならぬ。
時々全部寂静相のがあるけどね。あんなものじゃ駄目だ。今の仏師はそういうとこ見ていない人もいる、そういう人は私に言わせれば仏師じゃない、ただの人形作りです。
天台の深旨においては「仏に悪あり」という。悪あればこそ悪を救いうる、ゆえに仏には煩悩性悪をあえて断ぜずという。おのれに悪がないなら悪と縁を作ることなく救済もならない。
だとすれば上求菩提、下化衆生はとおりいっぺんに捉えるなら相矛盾する。
上求菩提とはどんどんストイックになって切り捨てていくことではなくなる。
「仏に悪あり」では困る。声聞縁覚ならそう考える。
でも観音は大乗の菩薩です。
だから切り捨てではなく包括。そうでないと菩薩ではなくなる。
包括のために悪というものも利用する。
恐ろしいのはこの暴悪大笑面はニセモノだとなんの役にも立たない。
本当の悪でいいんです。偽悪ではダメなんですね。
そんな下手くそな潜入捜査官みたいなこといらない。その、ままでいい。
いくら修行しても悪はなくならないから大丈夫。
大事なのはそこでこそ上求菩提のあくなき心。大菩提心。
それがないとただの悪業煩悩に堕する。
そこは大乗でも密教でないとできない芸当です。
今日も暴悪大笑面を心にしっかり潜ませてご修行しましょう。