信者さんで当院の十一面観音のお札を拝んでいたら、横にある大日如来の絵姿を見て「大日様の方が偉いんだから、大日様が真ん中じゃないとダメなのよ」といった友人がいたとか…
こんな話があります。
昔。高野山に弘法大師が作ったという一尺(30センチ)くらいの勢至菩薩を本尊にしているお寺があったそうです。
横には行基菩薩御作の伝えのある1メートルほどの阿弥陀様がありました。
ある名のある仏師がそれを見て「これはおかしい。勢至菩薩と言えば観音に次ぐ阿弥陀仏の脇侍ではないか。それなのに阿弥陀を脇に置くのは主客転倒である。場所を変えるべきではないのか。」といったそうです。
それで周囲の人々も「なるほど、そうかもしれない。」といいだした。
さて住職が所用有って地方に出張しているある日、夢に勢至菩薩が出てきたそうです。
「今、汝の留守中に汝の弟子らがあいはかって我に代わりて阿弥陀仏を本尊に変えんとしている、早々にやむべし、」と。
そういう夢を三日三晩見た。不思議なので宿の主人にそれを語っているところに高野山の自坊から手紙が来た。
内容は案の定本尊の変更であった。
余りの不思議に宿の主人もおおいに驚いたそうです。
それで早速手紙をしたため、本尊を変えてはならぬと書き送ったといいます。
寺に帰った住職からこの話を聞き、皆々不思議に感じ入ったというお話です。
このように密教には上も下もない。偉いも偉くないもない。
皆そこに拝まれるべきなのは曼荼羅なんですね。
たとえ一尊でも羯磨曼荼羅という立体曼荼羅になる。つまりそこに金胎両部がすべて備わっている。
大日如来も阿弥陀如来も三十七尊も外金剛部もすべてが内包されている。その働きが様々なだけ。どれを面にするかの違いだけです。
だからどなたを本尊にしようと自由です。それは縁による。
最外院の天部が本尊でもいいというのはそういうわけです。
たとえば同じ物語の中でも王様の話、英雄の話、従者の話、お姫様の話、どれを中心にしても話は語れるのと一緒なんですね。
一尊をもってあまねく法界を祈る。
それが密教の考え方です。