昔、私の師匠が十一面観音10体ほどご分霊を作って熱心な人に授与した。
でも結果はよくなかったそうです。
師匠の言うには自分のところに観音様が来たのだからもうお寺にいかなくてもいいという間違いをした人がいるといいます。
ほかにも自分だけが尊像を持つことから増上慢になった人もいる。
なかには自分のお寺に信者仲間に向かって、「うちにも観音様がいるのだから、お寺だけでなくうちにも拝みに来なさい!」などというとんでもない心得違いなことを言いだすものもいたとか。
これは大きな心得違いです。それはあくまでお寺のご分霊ですから。
電話の親機と子機の関係。
もう自分お部屋に電話あるからと部屋の子機と親機のリンク切ったらどうなる?
それは使えなくなる。そうでしょ。
ご分霊とはそういうもの。
「じゃあお寺の本尊と分霊はどう違うの?」
お寺の御本尊は個人のためのものではない、多くの人の願いや祈りの対象です。
じゃあ、手持ちのご分霊だって皆さんに拝んでもらえば同じことじゃないの?
いいえ、お寺にはそういう本尊にお給仕するお坊さんや行者さんがいます。
そういう人が行をするから業が初めて離れていく。つまり行の力と法の力がある。
これがないなら寺であって寺じゃない。
逆にそうでなく皆で拝めば願いに伴い、業もたまるだけたまる。浄化がない。しまいにかかええきれなくなって破綻する。
僧侶の祈りは業そのままの祈りを本尊に運ぶわけじゃない。
それを仏教の教えにより昇華して届ける。ここが大事です。
そうでないならただの拝み屋と同じ。変わらない。
結果K師(昨日伝法をしてくれた阿闍梨さん)と私のほか皆持ちきれんかった。
ほかは全部帰ってきたそうです。
どれも儀軌に準じて総ビャクダンで作らせた細かいよい作りの観音様でしたが・・・
それで師匠は十一面さんの尊像は下手に持たせてはいけないと考えて、尊像の授与はやめてお姿をかいたお守りに変えたそうです。
熱心な信徒さんが十一面観音信仰の普及に努めたいといったら、「やめておきなさい。そういう観音さんじゃない。縁のものだ。十一面経にも祝福薄きものは我が名を唱えることあたわずとあるでしょう。」といっていました。
無理な縁づくりはかえって無用の業を生む。
昨日もk師から話聞いたけどやはり十一面さんはきついし、密教わかる人ほどちょっと怖いから十一面供なんかまでして拝むの遠慮しますというお坊さんは多いそうです。
そんなんで以前は聖天信仰の習慣もあって十一面観音香合守りだしていましたが、今は歓喜童子に変えました。