空ということは説明できない
それは乱暴だという人もあるでしょう。
訂正はしませんが敢えて言うと…実は説明できないというのが説明なんですね。
理のそとにある理。
だから古来、空の説明は否定形でしかできない。般若経はおおむね「○○に非ず」という。その繰り返し。
そこを逆に「○○である」という説明をしたら空ではない。
それをしたら空はとたんに逃れてしまう。ひたすら肯定的にいえるのはその効用のみ。
「遠離一切転倒夢想」と。
それが空の説明
般若心経もそういう感じでしょう。皆、無で説明。
たずねてきた人は仏教の論書を見るに空の説明がみな違うという。
私に言わせればそこは体得した人の表現がおのおの違うのだと思う。その深い浅いの違いもあるだろうけどね。
でも言葉から真実を類推するのみだとどこまでもそこに引っかかって「変だ。違う。」となる。
リンゴはリンゴで皆同じだが、リンゴは赤い位置も濃さも少しずつ違う。
それで違うとなる。厳密にはそうですがリンゴはリンゴです。
文研研究というのはそこにこだわるのですがそれを聞くなら学者にきかないといけませんね。私は方向がちがいますから。
ましてリンゴの味は論文にかけないでしょう。食べなきゃ。