正観音は聖観音とも書くがある阿闍梨さんは「聖観音というのはおかしい。観音は聖者なのは当たり前だ。正観音と書くべきだ。」といわれたそうな。
まあ、変化観音に対する本来の観音ですね。
密教の個性的な変化観音を拝んでいるとこの正観音はとっても拝みやすい。
それだけ間口の大きいい素直な観音様なんですね。
時々拝むと味の薄いそれでいて味わい深いお料理を頂戴したような妙味を感じます。
御施餓鬼の本尊は真言宗だと千手様ですが天台宗では正観音。
だからお次第で南無大慈大悲救苦観世音菩薩というのはこの方のことです。
餓鬼道に堕ちるのは人間以上の存在。畜生界は貪る心も人間のような道徳感もないので、常に弱肉強食の恐怖はあるが地獄、餓鬼には落ちない。
地獄で針の山に上っている犬や猫は普通いない。地獄のどこにも悪い動物というのはいない。
つまり地獄も餓鬼もその人の心が生む境涯の世界です。
だから餓鬼はお施餓鬼で餓鬼の身をはなれて上がっていかれる。
動物は肉身のあるですから人間や天になるのは転生以外の方法はない。
三悪道で肉体のある存在は動物のみ。だけどこの世にいるのだから理解しなくとも三宝の縁に会う機会も多い。
地獄や餓鬼は同じ境涯の人しかいないのでお施餓鬼でもしてもらわない限りそういう機会はない。
そういう意味ではお施餓鬼の功徳はとても大きい。
何百年たっても子孫がお施餓鬼しないと出会えない。
正観音さんというとわたしは観音経を思うので観音経ばかりあげて、密教の行法はあまりしない。
でも基本の観音様だからしておくのもいいと思うんですね。
むしろしっかりおがんでおいたほうがいいのかもしれません。
観音さまは観音経に「悲体の戒めは雷震のごとし」という。
林天朗居士は画家でもあり、観音様を書こうと思っていたけど師匠の濱地天松居士から「大慈大悲の観音様はかたや悲体戒雷震というお方だ。やさしいばかりではダメだ。その両方を見事に描ききれるかな。」そういわれてどうしても観音様が描けなかったという。
天松居士の直門だった林天朗さんは不思議聖天宮の本尊の三天像などを描かれた方です。
うちの初代信徒総代さんでもありました。