金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

同情と同悲

同悲は仏教ではとても大事な心です。

悲しみを同じくすると書いて「同悲」ですね。

高みから見て哀れだのう・・・というのではない。

だから仏も同悲の故に地獄・餓鬼・畜生そして阿修羅のサガは備えておられるといいます。

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これに対して同情というのは状況に共感するものです。

それが的外れだったりするとかえって相手が不快になったりする。

境涯を同じくするものだからね。

 

同悲は生存の根幹にかかわる想い。

状況に情を寄せるものではない。生命に対する思いです。

だから同悲は相手に情としてあらわにしなくても同悲です。

故に同情のように拒否されることはない。

人間関係の難しさや病気・貧苦の奥に状況にとどまらず存在としての苦を見る。

四聖諦の「一切皆苦」です。

あらゆる生き物には救済が必要ということです。この想いが大事大悲になる。

例えば生老病死。生き物である以上免れない。

四苦のアンチテーゼとして仏教が出発したのも同悲のゆえです。

大乗仏教では釈迦牟尼は一代で悟りを完成した偉人という存在ではない。

久遠実成の法身釈迦の化身、常楽我浄の存在が人間として兜率天を下り生まれて来たのはひとえに同悲の故と考えます。

聖者には大悲がある。大海のような悲しみを秘めている。

オウム真理教の歌い文句だったように「絶対幸福」「絶対歓喜」なんか、そこから考えたら眉唾の幻想でしかない。

今でも世間で「 絶対幸福になれます」という言葉でどれほどの人が地獄を見ることか。

何かの宗教に入って「絶対幸福になれる」なんかない。

諸行無常・ふつう世間でイメージする幸福とはうたかたのような移り行く状況のことでしかないから。

 仏教でいう「幸福」はそういう状況の良し悪しに左右されない不動の心を得ることにほかならない。