良く講員さんからお身内の祈願も…と頼まれますが原則お断りすることが多い。
なぜなら本人が神仏に向き合えないと祈願は意味ないからです。
向き合えるなら本人が信仰すればいいのだから家族の頼みでなく本人が来るようにいう。
もちろん、本人が信仰しなくても全く意味なくはなくても、私が代わりに信仰するようなもんですから大変です。ザックリと簡単な予防的祈願ならできますけどね。
動物の病気祈願みたいなもんになる。
でも動物に信仰は分らなくても拒否感もないから人間よりはずっと楽です。
神仏は向かい合ってアクセスするから働く。
そうしないなら存在していないのと同じと思う。
だからせめて嘘でもいいからお札に向かって「お願いします」といってもらわないと祈願にならない。
法身とはただただ宇宙に遍満している状態。
呼びかけて報身。
働いて応身
「お願いします」で初めてスイッチが入る。
そんなの言わない!となればその祈願は基本的に無駄です。
でももともと法身があるから報身もあり応身もあるんですね。
電波はいっぱい飛んでいても受信しないとわからないでしょう。
受信するには電波を拾おうとする受信器がいる。これが信仰です。
唯物論者は呼びかけないから現れない。
それで彼らは神や仏があるなら戦争や災害や疫病はなぜあるんだという。
そういう天上から見ていろいろ考えてるような存在としては神仏はないんですね。
神といっても我々と同じく生きている八部衆や偉人の霊体なんかは感情を持っている神霊は個々の存在だからそこは少し違いますが。
私たちの慈悲や愛がちょうど電波を拾うこともできるモードです。
そこに感応する。
勿論愛といってもここでいう愛は恋愛のようなものではないです。
前にも言った同悲の感情です。