ある方のお話。今年の10月に拙寺から毘沙門天の御札が届いて、次の日に近所の乱暴な人物がいてなんとその人を些細なことで足で蹴っ飛ばさしたそうです。
一応はそんなことをすると警察沙汰ですよと文句はいったそうですが・・・
そうしたら日ならずしてその人は原因のわからない病でその蹴った足が腐りだしたらいことが分かったそうです。
病勢はやまずに最近はなんと目までも見えなくなってきたとのこと。
タイミングがタイミングなのでいささか怖くなったのか「毘沙門様のお怒りなんでしょうか?」との電話を頂戴しました。
確かに毘沙門様はいかめしいお方ですし。あのお札は普通はしない浴油というので丁寧に拝んではありますが、これは罰とかは無く本人の業が噴き出しているのだと思うとお伝えしました。
まあ。タイミングからそうと思うのは無理ないですが・・・人を足蹴になどする人のことですからほかにもろくなことはしていないでしょう。
ご本人は「なんか・・・そんなことになって気の毒なので何とか毘沙門様にお取りなしをすべきでしょうか・・・」といっていましたが「いりません。毘沙門天の罰でもないし、あなたのせいでもないので何も気にすることはない。もう気にかけないで捨ておくよう」に言いました。
冷たいですか?私って
でも正直私はそう言う人間です。この場合、余計な祈祷をすすめたりするつもりはゼロですし、たとえ頼まれても祈りません。
脚が腐った方が自分に起きたことはその人自身でどう受け止めるかしかない。
なにも関係がない以上、蹴飛ばされた被害者が罪の意識からする陰ながらの祈りなど無用です。これはもののけじめです。
そんなこと言うのは宗教者としておかしいのではという人もなかにいるかも。
勿論そういわれてもいっこうにかまいません。
「その人のため、あなたは回復の祈祷すべきだ」などとは口が腐ってもお勧めいたしません。
そんなこという方がこっちの口が腐る気がしますので。