ご僧侶で聖天・その他の天部や如意宝珠法などの増益の供養法をたびたび修しているがどうもお金に縁がなくてという人がいます。
数百座も修していてもあいもかわらずお金がないとぼやいている。
よく聞いてみるとそういう方の多くは往々にして布教ということをしていない。
祈願も祈祷もしない。
法事などに呼ばれてお経あげて帰って説法らしい説法もなく来るだけだという。
これでは不足です。
僧侶の大事は布教です。
僧階のある人を教師というくらいでしょう。
布教をしないのでは僧侶といえない。
諸天尊は拝めば何でも構わずお金を下さるというものではない。
その人の本分が生きるようにして下さるのが天尊です。
僧侶でありながら何かうまく当たるといい、なにかしらおいしい話はないだろうかというような・・・そのようなさもしい心を諸天善神はよしとしないのは当然でしょう。
その布教という僧侶の本分を尽くしてこそ護法神の加護こそあれ、と思います。